GLN鹿角のルーツあれこれ

九戸城跡

  • 九戸城跡
    九戸城
    H19.11.7
    模型H19.11.7
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     九戸城(宮野城とも)は推定では、明応年間(1492〜1501)に 九戸光政が築城したと考えられている。 その後、子孫の九戸政実(九戸政實)がこの地に居城、南部氏随一の有力者となって、 勢威を振るったと云う。
     「九戸の乱」のあと、豊臣秀吉は蒲生氏郷に命じて改修させ、福岡城と改称して 南部26代信直の居城とした。信直の長男の同27代利直が盛岡城に移った後、 寛永13年(1636)に廃城となった。
     
     即ち九戸城跡は、古い九戸城と、新しい福岡城の二重構造からなり、中世のものと、 近世のものとの両方の特色がみられる。例えば「石垣」は中世のもので、自然石 (加工を施さない)を積み上げており、東北地方では最古のものとされている。
     城は、東に猫淵川、西に馬淵川(まべちがわ)、南に空堀、北に白鳥川からなり、 自然の要害を巧みに利用した大規模なもので、山城から平城に移行する過渡期の 典型的な「平山城(ひらやまじろ)」である。
     
  • 九戸の乱
     九戸政実は、父は九戸右京信仲、母は八戸南部の老臣八戸但馬の娘、 その長男である。
     政実は二十歳を過ぎた頃から武勇抜群の青年武将に成長し、九戸の領袖 として自他共に認められるようになっていた。特に永禄11年の鹿角恢復戦争 (別掲「安東氏の鹿角攻略」の項参照)では、一方の大将として進軍し、僅か 三百の兵をもって、その十倍の秋田愛季の軍を破ったと云う。その武勇と 功績が認められて、宮野城(九戸城)を本拠とし、三戸南部に劣らない 一万七千八百石の禄高であったと云う。
     
     一方の田子信直(たっこのぶなお)は、南部氏22代政康の次男田子九郎高信 (後に津軽郡代となり、 石川高信と改名)の長男で、南部氏24代晴政の長女の婿になって、南部氏25代領主 を約束されることもあった人物であった。
     即ち晴政は天正8年(1580)に死去したが、晩年まで嫡男が無く、信直を 後継者としていたが、後に男子(25代晴継)が誕生したので、これを撤回した。 晴政の死後、信直支持派と晴継擁護の九戸派が対立、また晴継も13歳で謎の死を 遂げたので、混迷の中で信直が南部氏26代目を継いだ。
     
     天正18年秀吉は小田原城攻略の後、奥州仕置を開始し、小田原攻略に参陣 しなかった諸将を追放した。しかし仕置軍が去ると、残党が蜂起して不穏な 状況であった。この機に乗じた九戸政実は、翌年3月に挙兵した。
     9月1日に奥州再仕置軍六万五千が馬渕川流域に襲来し、政実の九戸軍五千は 善戦した。難攻不落の九戸城を前に苦戦と疲弊の仕置軍は4日、長興寺の和尚を 使者にし、政実の武勲を称え、家来や女子供の命と引換えに降伏を勧告した。 政実はこれを受けて開門したが、実はこれは謀略で、仕置軍は城内へ なだれ込んで、あえなく落城し、女子供に至るまで、撫で斬りにされたと云う。
     政実は、宮城県三迫で処刑された。
     
     名実共に秀吉の支配下の戦国大名となった南部信直は、九戸城と、和賀・稗貫・志和 の三郡を授けられ、九戸城を福岡城と改めて居城した。
     
  • 九戸の乱と鹿角
     九戸の乱で、宮城県三迫において誅殺されたのは、 五兵衛昌忠弟頭人の大湯四郎左衛門昌次、 九戸住頭人の円子右馬允光種、鹿角住頭人の大里修理親基であった。彼らの遺子一族に 対する処分は、当時としては異例と云えるほど寛大なものであったと云う。  
     即ち九戸城に籠城した、その他については、 四郎左衛門の子の大湯次郎左衛門昌吉は津軽に走、 四郎左衛門の二男の大湯彦右衛門昌致は津軽に走、修理の子の大里備前親易は出羽に走、 備前の子の大里左衛門五郎親房は浪人、右馬允の子の円子金十郎邦種は浪人、 金十郎の子の円子右馬助種貞は浪人と云う処分を受けた。なおその他には、 長内伝右衛門、長内弥左衛門、長内庄兵衛らがいたが、処分内容は不明である。

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