九戸城跡
九戸城

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九戸城(宮野城とも)は推定では、明応年間(1492〜1501)に
九戸光政が築城したと考えられている。
その後、子孫の九戸政実(九戸政實)がこの地に居城、南部氏随一の有力者となって、
勢威を振るったと云う。
「九戸の乱」のあと、豊臣秀吉は蒲生氏郷に命じて改修させ、福岡城と改称して
南部26代信直の居城とした。信直の長男の同27代利直が盛岡城に移った後、
寛永13年(1636)に廃城となった。
即ち九戸城跡は、古い九戸城と、新しい福岡城の二重構造からなり、中世のものと、
近世のものとの両方の特色がみられる。例えば「石垣」は中世のもので、自然石
(加工を施さない)を積み上げており、東北地方では最古のものとされている。
城は、東に猫淵川、西に馬淵川(まべちがわ)、南に空堀、北に白鳥川からなり、
自然の要害を巧みに利用した大規模なもので、山城から平城に移行する過渡期の
典型的な「平山城(ひらやまじろ)」である。
九戸の乱
九戸政実は、父は九戸右京信仲、母は八戸南部の老臣八戸但馬の娘、
その長男である。
政実は二十歳を過ぎた頃から武勇抜群の青年武将に成長し、九戸の領袖
として自他共に認められるようになっていた。特に永禄11年の鹿角恢復戦争
(別掲「安東氏の鹿角攻略」の項参照)では、一方の大将として進軍し、僅か
三百の兵をもって、その十倍の秋田愛季の軍を破ったと云う。その武勇と
功績が認められて、宮野城(九戸城)を本拠とし、三戸南部に劣らない
一万七千八百石の禄高であったと云う。
一方の田子信直(たっこのぶなお)は、南部氏22代政康の次男田子九郎高信
(後に津軽郡代となり、
石川高信と改名)の長男で、南部氏24代晴政の長女の婿になって、南部氏25代領主
を約束されることもあった人物であった。
即ち晴政は天正8年(1580)に死去したが、晩年まで嫡男が無く、信直を
後継者としていたが、後に男子(25代晴継)が誕生したので、これを撤回した。
晴政の死後、信直支持派と晴継擁護の九戸派が対立、また晴継も13歳で謎の死を
遂げたので、混迷の中で信直が南部氏26代目を継いだ。
天正18年秀吉は小田原城攻略の後、奥州仕置を開始し、小田原攻略に参陣
しなかった諸将を追放した。しかし仕置軍が去ると、残党が蜂起して不穏な
状況であった。この機に乗じた九戸政実は、翌年3月に挙兵した。
9月1日に奥州再仕置軍六万五千が馬渕川流域に襲来し、政実の九戸軍五千は
善戦した。難攻不落の九戸城を前に苦戦と疲弊の仕置軍は4日、長興寺の和尚を
使者にし、政実の武勲を称え、家来や女子供の命と引換えに降伏を勧告した。
政実はこれを受けて開門したが、実はこれは謀略で、仕置軍は城内へ
なだれ込んで、あえなく落城し、女子供に至るまで、撫で斬りにされたと云う。
政実は、宮城県三迫で処刑された。
名実共に秀吉の支配下の戦国大名となった南部信直は、九戸城と、和賀・稗貫・志和
の三郡を授けられ、九戸城を福岡城と改めて居城した。
九戸の乱と鹿角
九戸の乱で、宮城県三迫において誅殺されたのは、
五兵衛昌忠弟頭人の大湯四郎左衛門昌次、
九戸住頭人の円子右馬允光種、鹿角住頭人の大里修理親基であった。彼らの遺子一族に
対する処分は、当時としては異例と云えるほど寛大なものであったと云う。
即ち九戸城に籠城した、その他については、
四郎左衛門の子の大湯次郎左衛門昌吉は津軽に走、
四郎左衛門の二男の大湯彦右衛門昌致は津軽に走、修理の子の大里備前親易は出羽に走、
備前の子の大里左衛門五郎親房は浪人、右馬允の子の円子金十郎邦種は浪人、
金十郎の子の円子右馬助種貞は浪人と云う処分を受けた。なおその他には、
長内伝右衛門、長内弥左衛門、長内庄兵衛らがいたが、処分内容は不明である。
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