「鹿角」
 
△十 鹿角町村巡り
<宮川村>
 宮川村に於て、他に最も誇るべきものが二つある。
 一つは大正九年四月、産業組合中央会々頭より、粒々苦心、経営の成績良好、他の 模範なるの所以を以って表彰せられた、宮川村信用購買販売組合の活躍して居ることゝ、 他は、未だ天下に知られない幾多温泉勝地を有して居ることである。
 
 宮川村は鹿角の南端、花輪町を距ること一里、米白川の上流五の宮嶽の麓に位して居る。
 五百一町歩の田、三百十町歩の畑、百二十町歩の山林、二千五百町歩の原野の中に、六部落 五百四十九戸の純農村の集りから出来て居る。
 もとは何処も同じく、此の農村も殆んど金融の機関を有せず、僅かに無尽講の如きものに 依ってのみ、辛うじて相互の便を計ったに止まり、町と接近して居る部落の如きは、高利貸の 跳梁に委せ、之が為めに膏血を絞られた悲惨な事実が、幾多も耳にする所であった、物品を 強売して暴利を貪る行商人の跋扈に泣かされゝつも、日用品の供給を受けなければならなかった と云ふのも、唯々不便の結果に外ならぬのであった。
 
 偶々大正二年の凶作に遭遇した本村は、山間に僻在して居る丈け、其の影響甚だしく、 収穫皆無の悲境に陥り、惨状を極めたのであった、
 滅び行く村は、日に人心疲弊して業にいそしまず、心有る者の総べては之が救済の道を熱心に 講究するやうになった、時恰もよし、凶作救済の資金として当局から補助するに、金壱千円 を以ってせられた、是実に他に誇るべき宮川産業組合設立の動機とはなったのである。
 目前の苦しみに堪へ兼ねた村民中には、此計画に容易に賛成しやうとしなかったと云へば、 献身的奮闘をもって努められた、組合長 阿部藤助氏 の苦心を如何に多からしめたことで あったであらう。
 
 大正三年七月二十八日設立認可を得た宮川信用購買販売組合は、設立して既に七年、大正 九年度末に於いて、五百三十七人の組合員を有し、出資金拾円は全額を払ひ込み、貯金の 現在高六万六千六百四拾弐円、八万弐千七百六拾弐円の物品購買と、六万五千四百六拾四円 の販売物品を取扱ひ、所謂模範組合を建設経営するに至った、創設以来殆んど寝食を忘れて 尽瘁し、よく今日の盛大を致した生みの恩人とも云ふべき村長にして組合長を兼ねたる阿部 藤助と、並に陰陽の隔てなく之を輔けて、内外の事務を掌った書記淺石市郎氏、二人の談話の 要領を記して参考に供し度いと思ふ。

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