「鹿角」
 
△七 伝説の鹿角
<錦木塚>
 奥羽線大舘駅にて乗り替へて鹿角郡毛馬内駅に降りれば、直ぐに眼につく鹿角の 名所案内、先づさきに読まれる錦木塚は、其処毛馬内駅の前方約一町、錦木村字錦木の 草深き中にあるのである、古墳、苔深くむして、愁風徒らに蕭条、何を悲しみ、何を 歎くのであらうか。
 右の銀杏、左の老杉、ともに錦木の恋物語りをば、永遠に枯れ朽ちることなきやうに 伝へるのではないかと、偲ばれてなつかしい、さればこそ、伝へ聞く錦木塚の物語りを 記すも亦、あだならぬことゝ思ふのである。
 
 人皇十三代成務天皇の御宇、奥州の土民、干戈を動かす事の屡なりしかば、朝廷は 郡の司を置いて、是が鎮静を図られたのであった。
 北奥州の五郡は、かしこくも大己貴命より二十六代の裔狭名ノ大夫サナノキミ、是が司として 下向せられ、里長を置き、地理の境界を定め、又農事耕作の道をも教へられたので、土民 これより悦び服して、再び干戈を動かすものは無かった。
 
 帝は、其の勲功を賞して、豊丘の里を改め、狭名の一字を取り、狭布の里とお名付けに なった、
 狭名、官にあること三十有七年、仲哀天皇の二年、豊丘の邑にて卒せられたのである。
 狭名大夫の八代の孫に政子姫と云ふ、世にも稀なる乙女があった、年は花恥かしい 二八の春、折らば落ん萩の露、拾はば消ゆる玉篠のあわれにも亦婉かなる其姿は、譬ふれば 野辺に咲く白百合の如く美くしく、且つは言ひ知れぬ尊さを備へるのであった、
 愛する我女の為めには、よき婿をがなと、心を痛めるは今も昔も隔てなき、子故に思ふ 親の心でなければならぬ。
 
 政子姫は、狭布の里橋落川の下(今の古川の事)、葦田原町のほとりに在って、布絹ヌノキヌ巧みに 織り、里人の児女に教へ導いて居たのであった。
 狭布の細布セバヌノと呼んで、後の世迄も宮廷への貢物とした鳥羽布は、即ち姫が始めて 鳥の毛を集めて織りなしたものである。
 
 其頃、草木二本柳の邑から、町に物売りに出る一人の若い男があった、
 何時とは無しに布織る梭オサのあるじの、限りなくも美しい姿に見染めては、恋ひしさのあまり ひそかに心を砕くのであった。
 男は人知れず、毎夜毎夜幾里の路を遠しとせず、乙女の家の門辺に錦木を立てゝは、 暁近く帰行った、
 其頃の習はしとして、文書くことも無く、仲人を頼ると云ふ事もなかったので、木の枝を 束ね、錦の如く彩り、此木を何邑の誰と名を記し、我が望む女の門に立て置く時は、女に心 ある時はその染木を中に取り入れ、然らざる時は何時迄も門に立てられて居たと云ふ、 此の染木を錦木とは呼んだのであった。
 
 政子姫は、夜毎に殖えゆく錦木の数を見ては、男の誠心も思はれて、余りに無常ならんことを 怖れ、胸のおのゝきを押へつゝも、嬉しげに其木を取り入れんとした時、老翁は是を 許さうとはしなかった。
 今は昔語りの「狭布の細道」とは、若き男が姫の家に通ひつめた道跡であった、
 露の細道踏み分けて、草深き乙女の家にたゝずめばとて、逢ふことすらも叶はなかった、 失望に悩む胸を押へつゝ冷たい路を帰る時、彼が涙ながらの顔を洗ったと云ふ涙川は (うれひ川とも云ふ)、今もうらめしき泪の雫を静かに流して居る。
 彼が帰るさは、常に其の坂に於て夜が明けたと云ふ、夜明け坂も、今は有心無心の 善男善女が往き来に委せて居る。
 
 風を衝き雨を冒すことの幾度、春秋歳を重ぬること三回、千夜千束の錦木に只管籠めし 心願は、あわれ空しく絶えて、身は疲れ、恋に破れて悄々と我家に帰り、患の身とは なったのである。
 姫の父大海オホミ、姫に告げて曰く、
 先祖文石アヤシ、不幸にして民間に落ち、家貧の故を以って等しく民間に交はると雖も、 狭名大夫より八代、人々は皆、之を知って居る、里人に嫁して家名を恥かとむるが如き ことあっては、祖先に対して不孝の極みである、
と云って、二人の恋を許さなかったのである。
 
 が遂に、針薬飲食を絶って、推古天皇七年、七月十日幽明境を異にしたことを聞いた 姫の愕きと悲しみは、譬ふべき言葉さえも知らなかった、然し姫はやっぱり女であった、 純潔無垢の乙女は、やがて五日後れた十五日、若き男の後を慕って、冷たい骸とはなった のである。
 政子の父大海の悲歎は又一夕であった、やがて親の恵は、若き男のなきがらを請ひ受けて、 千束の錦木と共に二人を埋め、錦木塚とは名づけたのである。
 斯くて二人の恋は、冷たい骸となって初めて叶ひ、千年尚尽きぬ生命を享受して居るの ではないか、邑の人、二人の墓の印しとて、杉と銀杏を植えたのである。
錦木塚伝説

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