鹿角の近代人物伝2 |
大正の初め、俳諧にホトトギス派が台頭し、花輪地区では小田島樹人らがこれを積極的に 推進した。大正六年花輪青年会の「花輪青年」(新年号)に、大里周蔵は、杏里と号して、 坑道の出口美しき氷柱かな を載せるなど、文化活動に関わっていた。 大正七年頃、世情不安に対処するするため内務・文部両省では、これまでの村落若者組を解散して、 町村一本の青年団に改組して思想健全な中堅国民を育成することとした。同八年の花輪町(用野目を 除く)の青年会の会長は、大里周蔵が務めていた。また鹿角郡連合青年団の団長にも就任し、修養講座、 弁論大会、スポーツ大会など行われた。 同十年、修養団天幕講習会に全国の青年達を呼ぶにあたり、花輪青年会(会長大里周蔵)では 「鹿角」を発行して、鹿角の国を広く紹介した。この「鹿角」は、当時の鹿角郡全般のことを知る上での 格好の手引書である。 政友会に所属していた大里周蔵は、同十二年九月の秋田県会議員選挙で当選し、以後 県政に関与することとなった。 鹿角郡内に中等学校が欲しいとの声に応じて、まず花輪町に花輪実科高等女学校設立に関する 調査臨時委員会が同十四年七月に設置され、村山喜四郎、大里周蔵、山崎乙治、関威、 高谷謙太郎らが委員に選ばれた。翌年三月に設立認可され、四月十二日開校式及び第一回 入学式が盛大に挙行された。 昭和六年の農村不振に際して県では、各方面から寄せられた凶作地義捐金により、 同七年六月県内二十一ケ町村で凶作地医療保護施設を開設することとした。このうち鹿角では、 宮川村、大湯町、七瀧村で行われ、大里周蔵は宮麓小学校で二日間診療にあたった。 同十四年警防団令により、永い歴史を持つ消防組は防護団とともに発展的に解消を遂げ、 新たに警防団として発足することとなった。花輪町では大里周蔵が団長を務めた。 参考:鹿角市史ほか
注:別掲
「鹿角」
の項参照
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