鹿角の近代人物伝 |
鹿角縁記の著者である伊藤宗兵衛は、明和四年毛馬内桜庭家の家臣伊藤喜三右衛門の 三男として、毛馬内古町に生まれた。伊藤家は三百余年も続いた旧家であるが、禄高は 十七石余の貧乏士族であった。宗兵衛は、幼少の頃から神童といわれた俊才であり、学 問に志して良い師を求め、秋田や大館にも赴いたが良師を得られなかった。 寛政八年青雲の志止み難く、江戸に出奔し山本北山に入門し、為憲イケンと号した。宗 兵衛三十歳の時である。 初め花房氏や鵜殿氏に仕えたが、思うように勉強できないので、後、竹本氏の家庭教師 となった。後年、竹本氏が長崎奉行となったので、宗兵衛は公用人にあげられ、扈従 コジュウして長崎に至り、西洋の文化にふれる機会を得、広い視野を学ぶことができた。外 国貿易の唯一の門戸である長崎奉行は、皆大いに富を得た。宗兵衛も多くの富を得、江 戸に戻ってからは、学問一筋に生きることになり、この頃から為憲と号し、北山門下の 折衷セッチュウ学舎として重きをなした。 文政十年、友人内藤官蔵(湖南の曾祖父)が持参した狭布の細布と錦木塚縁記を見 て、大いに感ずるところあり、「鹿角縁記」を著し、生家伊藤家に届けた。 「鹿角縁記」は、郡内の名称旧跡人物山川の形勢を余すところなく考証したもので、 「秋田叢書」の深沢多市氏が「秋田叢書」八巻に収め、大町桂月はこれを読んで、「ま れに見る多識の人」と激賛した程の名著である。けだし「鹿角縁記」は、鹿角郷土史の 最初の著作であり、郷土史を志す者にとって、必読の書となった。 伊藤家は泉沢家・内藤家と姻戚で、文字通り鹿角郡学の祖というべきである。為憲には 、為善という子があったが、二十四歳で早逝し、江戸に於けるその後の消息は明らかで ない。為憲の同朋には、佐竹義和候があり、北山内弟子大窪詩佛は、秋田藩学に大きな 影響を与えた。 為憲は、鹿角で江戸遊学の最初の人であり、これを先達として奈良譲山、泉沢牧太( 履斎)等次々と江戸に上り、鹿角折衷学の大山脈を形成した。 「鹿角縁記」の著作後の消息は不明であるが、書簡等から天保十年七十一歳で病没し たと思われる。 「鹿角の民俗考」 |