鹿角の近代人物伝
 
…… 薄命の地理・民俗学者 ……
△佐々木彦一郎   明治三十四年(1901)〜昭和十一年(1936)
 地理学・民俗学の研究を志している者で、 佐々木彦一郎 の名を知らない者はいないだろ う。
 彦一郎は明治三十四年四月十三日、花輪六日町の佐々木家に生まれ、二歳の時父留次 郎と生別し、四歳で母にも別れ、祖父母に育てられるという不運な少年時代であった。 花輪小学校を卒業する、広島県呉市に在住する伯父彦太郎に引きとられ、呉中学校に進 んだ。学校時代は地理が最も得意であったという。続いて、仙台にある第二高等学校文 化乙類に進んだ。
 奥羽山脈のただ中の鹿角盆地に育ち、瀬戸内海沿岸の呉で中学時代を過ごした彦一郎 は、二つの地域文化に著しい差異のあることに興味を持ち、自然と民俗の関係に注目す るようになったのであろう。
 
 大正十一年、東京大学理学部地理学科に進み、十五年同大を卒業したが、その時の論 文の題名は「鹿角盆地の経済地理構成」であった。卒業後はそのまま大学に残り、山崎 直方・辻村太郎両博士の助手となった。その間第一高等学校、日本大学、明治大学などで 地理学を講義している。
 一方、日本地理学会の常務評議委員や高等学校地理教授要目原案調査委員としても活 躍している。主な著作には、昭和五年の「人文地理学提要」「経済地理研究」、六年の 「山島社会誌」、八年の「村の人文地理」がある。このうち、山島社会誌では、鹿角の 地理・民俗学を扱っている。人文地理学は若い学問であったが、彦一郎の著作はその興隆の 基礎となり、今日でもなお古典的名著として知られている。また、「地理学評論」「民 俗学」などに多くの論文、随筆数篇を発表し、学会の注目を浴びていた。
 
 「ワガ郷土カヅノニ
  アマリニモ心ヒカルル」
と、山島社会誌に記されているように、彦一郎の心はいつも郷土のことで満たされてい たが、不幸病魔に侵され、同十一年四月十日神奈川県鶴見市の寓居において、三十五歳 の若さで不帰の客となった。
「鹿角の民俗考」

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