鹿角の近代人物伝
 
…… 鹿角郷土誌と伝説の鹿角の著者 ……
△曲田慶吉   明治二十一年(1888)〜昭和十六年(1941)
 曲田慶吉は明治二十一年九月二日、大湯町の曲田儀助の長男として生まれた。三十年 秋田師範学校に入学、在学中から散り、哲学、教育学、文学に興味をもっていた。教職 についてからは、花輪、小坂小学校の教頭、錦木、種梅、飯田川、鹿山の各小学校長に 任じられ、そのつど、それぞれの地で「郷土誌」を書いている。
 
 また、昭和初期から郷土教育が提唱されたのに応え、慶吉は秋田魁新報に「鹿角の伝 説」を連載した。これが当時の魁新報の主筆安藤和風によって高く評価され、昭和六年鹿角 郡教育会が単行本として刊行している。その序文は和風である。
 ついで同年、鹿角時報に載せた記事を元に「鹿角郷土誌」を出帆した。その序文は、 当時の秋田師範学校長和田喜八郎である。「鹿角郷土誌」は、内藤十湾の「鹿角誌」に つぐ、郡内二番目の総合郷土史で、これが郡教育にどれだけの恩恵を与えたかは、計り しれないものがある。
 
 一方、教育学の方面でも、例えば大正末期から昭和初期に、日本の新教育運動の一員 として活躍した奈良靖規(毛馬内出身・別掲)に大きな影響を与えている。
 奈良靖規の最初 の赴任校、二ツ井町の切石小学校長が慶吉であった。奈良靖規が着任のあいさつに訪れ ると「君は新教育運動に熱心だという報告を受けたが、いま世界の教育はどう動いてい るのか素直な意見を述べてみなさい」といわれた。とっさのことでとう答えたものかと 迷っていると、慶吉は「いま世界の教育哲学はドイツ流が衰退してフランス哲学に移り 、学制発布以来の教育を支配してきたヘルンバルトの主知主義のナショナリズムから自 己活動の教育へ、教科書中心主義から児童主義へ大きく転換しつつある。教育改革は、 確固たる信念と理論を身に付けることが大事だ」と、十数日にわたってベルグソンの生 命哲学に基づく教育論を教えた。そして奈良靖規をして生涯の大恩師といわしめて いる。
 昭和十六年四月二日、病のため没した。享年五十五歳であった。

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