鹿角の近代人物伝 |
明治時代、医療一筋に生き「学士様」と庶民に親しまれたのが、 大里文五郎である。 文五郎は元治元年三月一日、大里寿の三男として花輪に生まれた。幼少から温厚怜悧 、学力抜群で、明治九年開校間もない秋田中学に学んだ。十三年、父寿は郷里に良医 のいないのを憂い、文五郎に医学を修得させた。ドイツ語学校に進み、二十三年に医科 大学を卒業した。同級生に北里柴三郎がおり、机を並べ共に研究を競いあった仲である 。当時大学出の医師は極めて少なく、希望すればどんな栄達の道も開かれていたが、文 五郎は父の素志を体して花輪に戻り、医院を開業した。 誠実な文五郎は、求められればどんな僻地にも気軽に往診し、近郊の病人は学士様か ら脈をとっていただくだけで満足したというほど、名医として庶民に信頼され、尊敬さ れた。 同二十六年鹿角郡医師会を組織し、推されて会長となり、以後二十余年の長きにわた り郡の医療活動の改善につとめた。二十八年秋、郡南に赤痢が大流行した。町医と検疫 委員を兼ねていた文五郎は、遠く八幡平の奥地まで消毒診療に出かけた。三十四年九月 の花輪を中心とした赤痢大流行の時も、不眠不休で治療に当たった。 同三十六年には自宅に本郡看護婦養成所の創設に尽力し、進んで講師となり、診療所 の一部を解放し、十六名の卒業生を世に出した。本郡における看護婦養成のはじめであ る。 また、当時庶民はトラホームの恐ろしさを知らず、時には失明する者さえあった。文 五郎は三十八年から四年間およそ十二万六千余人の無料診療をしてその撲滅につとめ、 国から大金杯を授与されている。 同四十二年郡会議員に当選し、また町有志に呼びかけて花輪町の将来を考える懇話会 を組織するなど、地域振興に尽くすこと大なるものがあった。 しかし、同四十四年十一月二十九日、四十八歳の若さをもって病没した。葬儀には千 数百人が参列したという。ちなみに大里病院の文祐、祐一氏はその直系である。 |