平田篤胤と長嶺六尺家
 
△目時隆之進と平田篤胤
 ご案内のように、平田篤胤の唱える思想、つまり国学の尊王・敬神・復古の思想は、 平田学として幕末の当時の社会の各界各層にまで浸透し、明治維新の強力な基盤となったとされる。
 幕末から明治にかけての神道家を始め、現在の神道学者の多くも、平田篤胤の学問の大きな影響下に 立っている。そのため、国学の四大人の一人に数えられ、門人は生前に約五百五十人、 没後に約二千七百五十人を数えたと云う。
 
 その当時、東北地方は特に、北方(ロシア)からの守りが急務であった。
 そして、平田篤胤は北国秋田の生まれであったためであうか、秋田藩は尊王派へと傾いていった。
 従ってこのような情勢に鑑み、目時隆之進も、平田学に深く傾倒していったものであろう。
 
 しかし、盛岡藩にあって平田学を信奉すると云うことは、慎重には慎重を要する。 目時は、人目に触れないように、神棚か何かに安置し、或いは旅の時でもこの塑像を秘かに携行して、 その想いを確固たるものとしていたものと推測することは難くない。

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