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平田篤胤と長嶺六尺家 |
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△六尺家の初代阿部平太郎 六尺家の初代は阿部平太郎で、現住居は秋田県鹿角市八幡平字長嶺46にある。 さて、目時隆之進は南部領鹿角郡の長嶺村・谷内村(現在の鹿角市大字八幡平)に 知行所を持っていた。 目時が上洛したとき、終始彼と行動を共にしたのは、 長嶺村の下僕甚七・伝之助とされている。 目時が、黒沢尻の本陣鍵屋の庭前で自刃したとき、 白壁には報国と大書された血文字が残されていた。 死色の迫る主君目時から遺品や後事を託された甚七らは、 盛岡へは立ち寄らず、秋田廻りで長嶺村へ持ち帰った。 今も甚七家には、当時の状況を記した日記やその他の書簡数通、 また伝之助家には、自刃による血染の小石などが保存されていると云う。 一方、平太郎は、同村和田一本木の佐平次家の長男として、天保元年(1830)頃に生まれた。 若くして、長嶺村を給地としていた盛岡藩士目時家の当主隆之進の引き立てにより、 盛岡城下に出仕し、藩主の六尺をしていた。 六尺(陸尺とも)とは、駕籠かきなど力仕事や雑役に従う人夫のことで、 平太郎は、目時に従って上洛した。 目時隆之進の自刃により平太郎は長嶺村へ帰り、いわゆる六尺家の初代当主となった。 平太郎が持ち帰った遺品の中に、平田篤胤を象ったと目される一つの「塑像」があるのである。 なお、六尺家は現在五代目榮一(平成17年5月11日没)が当主である。 因みに、甚七の大叔父甚八は天保年間、藩公の御六尺となった人で、 二所之関軍右衛門と名乗って、大相撲の二所一門の初代とされ、その墓所が長嶺にある。
参考:鹿角市史ほか
阿部甚正(甚七) |