[詳細探訪]
 
                  参考:(株)平凡社発行「蝦夷の古代史」ほか
 
〈田道タミチ将軍のこと〉
 国造クニノミユツコ制とは、朝廷がそれぞれの地域の最有力な豪族を国造に任命し、それぞれ
の地域の土地と人民の支配を委ねる制度である。六世紀頃の大和朝廷によって任命され
た国造は、大和朝廷の同盟者と云うような存在ではなく、国造は朝廷の地方長官に位置
付けられていた。
 
 朝廷から国造に与えられた姓カバネは、一般の国造が直アタイ、有力な国造の場合には君キミ
であった。東国で君の姓を有する代表的な例は、上毛野カミツケノ国造・下毛野シモツケノ国造で
あった。上毛野国造の領域は群馬県全域、下毛野国造は那須地方を除いた栃木県地方で
あった。
 国造は朝廷に対して、地域の特産品の貢納の義務を負い、朝廷から力役や兵役提供を
命ぜられた時には、国造自身又は一族の者が領民を率いて参加しなければならず、それ
は時には海を越えた外征のこともあった。即ち、
 
 『日本書紀』の仁徳天皇五十三年、新羅シラギ朝貢ミツギタテマツらず。夏五月、上毛野君の
祖オヤ竹葉瀬タカハセを遣して、其の闕貢ミツギタテマツラヌコトを問はしむ。是の道路ミチの間に白鹿を
護エつ。乃スナハち還りて天皇スメラミコトに献る。更マタ日を改めて行く。俄且シマラクして重ねて竹
葉瀬が弟イロト田道を遣して、則ち詔ミコトノリして曰ノタマはく、「若し新羅距フセがば兵イクサを挙
げて撃て」と。仍ヨりて精兵トキツハモノを授けたまふ。新羅兵ツハモノを起して距ぐ。爰ココに新羅
人シラギヒト日に日に挑み戦ふ。田道塞ソコを固めて出でず。時に新羅の軍卒イクサビト一人、営
イホリの外に放イデたるもの有り。則ち掠俘トラふ。因りて消息アルカタチを問ふ。対へて曰はく、
「強力者チカラビト有り、百衝モモツクと曰ふ。軽捷猛幹トクタケクツヨシ。毎ツネに軍イクサの右ミギノカタの前
鋒サキと為れり。故れ伺ひて左ヒダリノカタを撃たば敗れなむ」と。時に新羅左を空ムナしくして
右に備ソナふ。是ココに田道精騎トキウマツハモノを連ねて其の左を撃つ。新羅の軍イクサ潰ニゲアカれぬ。
因りて兵を縦ハナちて乗モむで、数百人アマタノヒトを殺しぬ。則ち四邑ヨツノムラの人民タミを虜トラへ
以て帰る。
 
 そして今度は、仁徳天皇五十五年に、大和朝廷は田道将軍に命じて、蝦夷地である「
鹿角の郷」へ進出してきたのであろう。
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