9901錦木塚
 
「錦木塚」   石川啄木
 
(昔みちのくの鹿角の郡に女ありけり。よしある家の流れなればか、かかる辺つ国はも
とより、都にもあるまじき程の優れたる姿なりけり。日毎に細布織る梭の音にもまさり
て、政子となむ云ふなる其名のをちこちに高かりけり。隣の村長が子いつしかみそめて
いといたう恋しにげるが、女はた心なかりしにあらねど、よしある家なれば父なる人の
いましめ堅うて、心ぐるしうのみ過してけり。長の子ところの習はしのままに、女の門
に錦木を立つる事千束に及びぬ。ひと夜一本の思ひのしるし木、千夜を重ねては、いか
なる女もさからひえずとなり。やがて千束に及びぬれど政子いつかなうべなふ様も見え
ず。男遂に物ぐるほしうなりて涙川と云ふに身をなくしてけり。政子も今は思ひえたえ
ずやなりけむ、心の玉は何物にも代へじと同じところより水に沈みにけり。村人共二人
のむくろを引き上げて、つま恋ふ鹿をしぬび射にするやつばら乍らしかすがにこのこと
のみにはむくつけき手にあまる涙もありけむ、ひとつ塚に葬りて、にしき木塚となむ呼
び伝へける。花輪の里より毛馬内への路すがら、今も旅するひとは、涙川の橋を渡りて
程もなく、草原つづきの丘の上に、大きなる石三つ計り重ねて木の柵など結びたるを見
るべし。かなしとも悲しき物語のあとかた、草かる人にいづこと問へばげにそれなりげ
り。伝へいふ、昔年々に都へたてまつれる陸奥の細布と云ふもの、政子が織り出しける
を初めなりとかや。)
 
にしき木の巻
 
槙原に夕草床布きまろびて
淡日影旅の額にさしくる丘、
千秋古る吐息なしてい湧く風に
ましら雲遠つ昔の夢とうかび、
彩もなき細布ひく天の極み、
ああ今か、浩蕩なる蒼扉つぶれ
 
愁知る神立たすや、日もかくろひ、
その命令の音なき声ひびきわたり、
枯枝のむせび深く胸をゆれば
窈冥霧わがひとみをうち塞ぎて、
身をめぐる幻、――そは百代遠き
辺つ国の古事なれ。ここ錦木塚。
 
立ちかこみ、秋にさぶる青垣山、
生くる世は朽葉なして沈みぬらし。
吹鳴せる小角の音も今流れつ、
狩馬の蹄も、はた弓弦さわぐ
をたげびもいと新たに丘をすぎぬ。
天さかる鹿角の国、遠いにしへ、
 
茅葺の軒並めけむ深草路を、
ああその日麻絹織るうまし姫の
柴の門行きはばかる長の若子、
とぢし目は胸戸ふかき夢にか凝る、
うなたれて、千里走る勇みも消え、
影の如たどる歩みうき近づき来る
 
和胸も愛の細緒繰りつむぐか、
はた秋の小車行く地のひびきか。
梭の音せせらぎなす蔀の中
愁ひ曳く歌しづかに漂ひくれ。
え堪へでや、小笛とりて戸の外より
たどたどに節あはせば、歌はやみぬ。
 
くろがねの柱ぬかむ力あるに
何しかもこの袖垣くぢきえざる。
恋ひつつも忍ぶ胸のしるしにとて
今日もまた錦木立て、夕暗路を、
花草にうかがひよる霜の如く、
いと重き歩みなして今かへり去るよ。
 
八千束のにしき木をばただ一夜に
神しろす愛の門に立て果つとも、
束縛の荒縄もて千捲まける
女の胸は珠かくせる磐垣淵、
永き世を沈み果てて、浮き来ぬらし。
真黒木に小垣結へる哭沢辺の
 
神社にして、三輪据え、祈る奈良の子らが
なげきにも似つらむ我がいたみはもと、
長の子のうちかなしむ歌知らでか、
梭の音胸刻みて猶流るる。
男のなげく怨みさはに目にうつれば、
涙なす夕草露身もはらひかねつ。
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