6101a大湯館跡
                参考:鹿角市史編さん委員会発行「ふるさと散歩」
 
 大湯温泉の入口、右手下の湯シモノユ側に標高差九十米程もある岩山が峨峨ガガと切り立
って見えます。
 鹿倉山カクラヤマと呼ばれるこの山上に、鹿角四氏のうち奈良一族の惣領である、中世の豪
族大湯氏が鹿倉館を築き、四隣に威を振るっておりました。山の中腹には年古りた薬師
神社があって、湯治場の長い歴史を物語るかのようです。
 天正十九年、戦国期鹿角における最後の戦いが、この鹿倉城を巡って展開されました。
史書聞老遺事に、九戸政実に一味して籠城した大湯四郎左エ門を、三戸方大光寺正親が
包囲し、
「頻シキリに砲矢ヲ発シ攻ムルト雖モ城中モ亦糧食丘ノ如クニ積ミテ帯甲ノ兵士能ヨク之ヲ
防グ。城将大湯モ亦勇猛ノ士」
なる故、攻めあぐねた後に、勇士関助右エ門決死の奮戦で、漸く落城せとめた、と記さ
れています。
 
 中町の神明社脇から、急な館坂を上って行くと、広なお暗い木立ちの中に、新城大湯
館の昔ながらの地形を見ることが出来ます。大湯館の後は赤尾氏がこの館に入り、寛文
五年以降南部一門の北氏が知行主として構えを整え、津軽藩境の守りを固めていました。
 大手門を上ると、御陣屋のあった本丸が深い谷と空壕に囲まれ、北口の搦手カラメテを隔
てた物見跡に立つと、大湯の家並を一望に収めることが出来ます。
 二の丸には今も屋敷門や湯治の庭園を残し、三の丸、武家町跡に続いています。
 この一帯を和町ワマチと云うのは、上ワ町ウワマチの意味で、旧来満街道に沿って発達した下
タの町に対する地名でした。

[次へ進む] [バック]