5904a毛馬内館跡
 
                参考:鹿角市史編さん委員会発行「ふるさと散歩」
 
 山間ヤマアイの静かな平和郷にも、兵馬の響きに揺らぐ動乱の時代がありました。
 建武四年津軽から鹿角へ討ち入った北朝方曽我貞光は、まず南朝方の拠点の一つ当館
を攻め落としたと、その軍忠状に見えています。当館は、毛馬内の古館当麻トウマ館である
とも云われています。
 町並みを北へ通り抜けると、前方に旧中学校跡のこんもりした高台が見えます。南に
汁毛川、西に小坂川の低地、東北は深い谷に囲まれたこの要害を選んで、中世の豪族毛
馬内備中ビッチュウの居館が築かれていました。
 天文年中に南部政康の五男秀範が毛馬内に封ぜられ、この古館に入って、当麻山大円
寺を創建しました。今、西町に当時の下タ町の名残を留めています。
 
 慶長の末、大守利直直接の縄張りによって柏崎館が造られ、その下の釈迦堂谷地に新
しい町づくりが行われました。
 明暦三年南部秋田両藩の境界論争が急を告ぐるや、南部四天王の雄桜庭氏が所預トコロ
アズカリとしてこの館の守りを固め、明治に至りました。
 古町を左に見ながら、武家屋敷の残る館坂を上り詰めると三の丸小路、右へ折れ升形
マスガタを曲がると二の丸になります。左手に御蔵奉行役宅や御蔵が並び、湖南博士旧宅の
辺りに毛馬内通ドオリ代官所が、向かい側育焉亭イクエンテイ付近に武具蔵が建っていました。
御田屋オタヤと呼ばれた桜庭氏の陣屋が置かれ、今も土塁ドルイや館神を残しています。
 この館下に広がる古い町並みに、慶長期の陣屋町の形態を偲ぶことが出来ます。

[次へ進む] [バック]