08 野尻佐京(野尻)
 
        参考:八幡平地区連合青年会発行「むらのいぶき(八幡平の民俗)」
 
「野尻佐京」鹿角三豪士の一人
 
 今から約八百余年前、鹿角三豪農の一人と言われた野尻佐京がおりました。今の鹿角
市八幡平の、中央の野の端の台地に館を構えておった。佐京の宅地は地番の番数からし
て見ても誠に広大である。そして、館も大きく、大家族生活をして居ったと伝えられて
おる。
 字野尻の三つの番地を合わせたのが佐京の敷地であることは、今尚明らかである。
 誠に環境の良い場所で、宅地は高台にあり、付近は平地であり、西南十五米位の所の
窪地に今も清水が、大量に自噴している。昔の人は、何よりも清水を頼りに住み着いた
ものと伝えられており、今も野尻村人の大切な飲用水として利用されている。そこは今
も宮地で、場所は広く、泉の噴く所は、東西四米、南北五〜六米位で周りは広く、桂の
木が生茂り、昔ながらの面影が偲ばれる。宅地より、北百五十米位離れた所にお稲荷様
が祀られておる。これは、佐京の内神様と言われており、二間四面のお宮で境内には今
も神木の五葉松、赤松、岩杉などが茂えている。五葉松は直径三尺五寸余、周り十尺余、
赤松一尺六寸位、岩杉は直径一尺位で、岩杉としては鹿角及び秋田県内でも珍しく、銘
古木と思われる。
 
 宅地より北東二百米位の所に駒形神社が建てられており、その付近一帯は佐京の信仰
する神様の森であったという駒形神社には、老木の山杉が二本残されておる。直径三尺
余、周り九尺余の老木が、道路からお宮に入る入口に残っているので、今も門杉と呼ば
れている。しかし、佐京の宅地は現在、野尻の村人の家敷となり、鎮守の森も、畑地に
開墾されてその姿は見られない。
 佐京の建てた駒形神社には毎年五月節句には、昔佐京の小作人達が馬を連れ、絵馬板
や御神酒、弁当を持ってこの駒形神社に朝早くから集まり、神社に参拝し、その後酒盛
りをして自慢ののどを披露し賑わったと言う。
 集まった村々は白欠、長内、長内新田、三ケ田、大久保、荒町、川部、野尻などの村
から集まったので、お宮内で飲むことが出来ず神社の庭に筵を敷き、大酒盛りをし、お
神酒を飲み干し、佐京の館にみんなが立ち寄り、日の暮れるまで飲み、連れて来た馬は
川原に放し置き、翌朝尋ねて連れ帰ったと言うから、佐京の豪華さが窺われる。今から
三十五〜六年前(本原稿の執筆は昭和五十一年頃のこと)までの牛馬の多くおった頃ま
では、昔の行事はそのまゝ伝わり、酒盛りをやっていたと伝えられている。
 
 佐京繁盛の頃は七ケ村の住民が集まり、当時手造り酒を使用したとある。佐京の酒は、
毎年冬の寒中に近所の小作人を集め酒を造ったという。冬の寒中は、清水が温くて外気
が寒いため、長い日数をかけて出来た酒は何とも言われない位良い酒が出来たという。
当時、お酒好きの老人が、病気してあの世に行く寸前に「佐京の地酒を飲みたい」と言
うので、そこの子供が佐京に願い、地酒を貰ってそれを飲ませたら「あの佐京の寒造り
地酒は甘い、何も思い残すことはない」と言って亡くなられたと伝えられる。
 また「佐京の地酒」と言ったのは、寒中に酒造り、それを土中に貯蔵して一年中その
酒を飲んだことから、それで地酒と名が付けられたのである。
 
 佐京の墓地は、館より百五十米位の東南の間、辰巳の方向にあり、昔は三十坪位の広
さがあったと言う。
 その墓地に館の玄関から墓地まで直線の道路を造ったと言い、その広い墓地には昔の
豪華な石碑が七基、石の仏像が五基立って、芍薬や牡丹など色々な草花が季節になると
咲き乱れておったと言われる。
 佐京の菩提寺は小豆沢の「竜沢山吉祥院」である。菩提寺の覚帳によると皇紀二三六
七年より前の事は不明であるが、東山天皇時代宝永三年以後は書かれてある。宝永三年
佐京の子息が死去し、その戒名は「無山慈心信士」と書かれている。正徳元年皇紀二三
七一年佐京の妻が死去し、その戒名は「心性軒覚室妙無大姉」とある。
 寛政三年に佐京の最後の一人娘と伝えられている、鶴姫の戒名は「鶴栄藤貞大姉」と
ある。
 
 この一人娘が寛政三年一月十日大日如来、今の大日霊貴神社に口願をかけ百度参拝し
たとあり、その時家族の駕篭カゴで参られたと言う。参拝九十九度目までは、順調に参拝
したと言うが、最後の一度目にお宮の石段から落ちてしまった。
 我が家に帰る途中、一の渡りへさしかかり、駕篭屋が駕篭を下ろし、川越えの仕度を
していると、駕篭の中から血が流れ出たので驚いて中を見ると、姫が短刀で自殺してお
ったと言う。駕篭屋は急ぎ家に帰り、その知らせに佐京一家及び一族の悲しみは大変な
ものであった。
 明年家中及び一族の者は姫を哀れに思い、自殺した場所の一の渡りに石の仏像を建て
て供養したと言う。
 この仏像は皇紀二四五一年、今から一八三年前に建てられたもので、紀元二五一九年
文久二年頃から、南部藩の道路補修工事が始められたと言い、一の渡りにも明治初年頃
橋が架けられ、新道も通るようになったと言う。その時佐京一族の建てた石の仏像は、
吉祥院に運ばれ安置されたと伝えられる。
 
 昔一の渡りは橋もなく、川越をして歩いていたので一の渡しという名称が付けられた
と言われる。
 その当時の鹿角は、如何に交通が不便であったかが偲ばれる。車の通る道はなく、物
は人、牛、馬の背中で運んだと言う。
 昔はこのように交通も不便であったが、田畑も少ないので凶作になると大変なもので
あり、少ない田畑の作物では凌ぐことは出来ないので、草の根や草の葉、木の葉を食べ
て飢饉を凌いでいたとある。昔の飢饉は、三年も五年も続いたと言う。
 外から食糧を求めたいと思っても穀止めをされ、交通の便が悪いため、大変苦労した
と言われる。
 夏は草の根、木の葉などを食べて凌いだそうだが、その時佐京は備蓄の食糧を出し与
え、義農と言われ、村人に慕われたと言う。
 また凶作のとき、味噌一わっぱと田二反歩とを交換したと書かれている。昔人は味噌
があれば、何物でも煮て食べられるので大切にされたものであろう。
 野尻佐京がどのようにしてこの地を離れて行ったかは明らかではないが、野尻を訪れ
るとその豪農の面影を偲ぶことが出来る。
 
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