02 鹿角街道(本道)
参考:鹿角市発行「鹿角市史」など
鹿角街道(本道)は、岩手県盛岡から奥羽山脈を越えて鹿角に入り、秋田方面へ通ず
る道である。
△古代中世の鹿角道
古代(奈良・平安時代、〜1191年頃まで)には、鹿角道は特に軍道として現れ、弘仁二
年(811)文屋綿麻呂フンヤノワタマロが爾薩体ニサタイ、幣伊ヘイイ二村(今の岩手県二戸・閉伊地方)
を征せんとした際の出羽俘軍デワフグンの進撃路は、鹿角道を辿ったものと考えられてい
る(『日本後記』弘仁二年七月十四日条)。
元慶ガンギョウの乱(871)において、鎮守将軍小野春風オノノハルカゼ、陸奥権介坂上好蔭
サカノウエノヨシカゲが「陸奥の路を取りて上津野カヅノ村(鹿角の古名)に入り、両国の兵と首尾
を夾み攻めん」(『三代実録』元慶二年八月四日条)とし、好蔭は「兵二千人を率い流
霞道ナガレシグレミチより秋田営に至」り、春風は「先ず上津野に入り賊類を教諭し皆降服」
せしめている(同十月十二日条)。
流霞道(霞は霰の誤字と云う)は、七時雨山(岩手県二戸郡)の麓から上津野への道
と考えられ、それからJR花輪線沿いに上津野へ入り、米代川を下って秋田方面へ出たの
であろう。上津野はその流霞道上の要衝であった。因みに流霰の「流」は、中国の制度
上朝廷支配の外にある辺境地帯を意味し、シグレとは通り過ぎると云う意味である。従
って流霰道とは、辺境蝦夷エゾの国を貫き通る道のことで、その頃上津野は未だ朝廷の支
配力が及んでいない地域であるにも拘わらず、流霰道と云う官道が貫通し、その影響力
を及ぼしていた土地と云うことになる。
このように上津野は辺境の東西交通路として重要であったから、上津野とは上道野の
転訛であるとの見方もある。
十一世紀に入り、奥六郡に覇を唱えた安倍アベ氏の時代、その遠祖が津軽外が浜・安東
浦アンドウウラ等に勢力を築いたとすれば(『藩翰譜』)、本拠衣川コロモガワと故地津軽との間
に絶えず連絡がとられ、鹿角道を経るのが最も近道であったに違いない。
『吾妻鏡』文治五年(1189)九月三日条には、源頼朝の軍に追われた藤原泰衡が、夷
狄島を目指す途中、肥内(比内)郡贄柵ニエノサクで数代の郎従河田次郎の弑逆シイギャクに遭い
果てたと述べている。その経路は、糠部ヌクノブ郡のうち今の二戸郡から鹿角を通過し巻山
マキヤマ峠を越え、犀川サイカワを下って贄柵に至る経路であったと伝えられ、奥六郡 − 糠部
− 鹿角 − 比内 − 津軽 − 渡島(北海道)を繋ぐ交通路の存在していたことを推測さ
せる。
中世(鎌倉・室町時代、1192〜1573)の鎌倉時代(1192〜1333)、鹿角には郡地頭職に
補任されたとみられる成田助綱始め、関東御家人の安保氏、奈良氏、秋元氏などがそれ
ぞれ郷・村地頭として所領を得ていた。これら現地の地頭代達と関東本貫地ホンガンチの惣領
家ソウリョウケとの往来は、政務の連絡や徴収した所当官物の輸送など、時として頻繁なもの
があったに違いない。
その他津軽地方には北条執権家の得宗領トクソウリョウがあり、その地頭代と鎌倉北条府との
往来もまた、鹿角道を通ることが多かった。
更に南北朝期における八戸南部氏の津軽・比内北朝方勢力への作戦行動や、戦国期三戸
南部氏による津軽制圧、対浅利氏、対安東氏の軍事行動など、鹿角道を経由することが
屡々であったと考えられる。
△鹿角街道
鹿角街道は、「鹿角往来」「鹿角道」とも呼ばれ、その道筋は城下盛岡を発し寺田、
荒屋、田山を経て鹿角に入り、米代川沿いに花輪、神田、松山を通って土深井ドブカイの
藩境を越え、秋田領十二所、扇田へと向かう、北奥羽の横断路であった。
また太平洋沿岸からの「塩の道」 − 福岡(二戸市)から浄法寺を経て、荒屋の曲田
で鹿角街道(本道)へ合流する道筋も、古くから鹿角街道と呼ばれていた。
△天狗橋
鹿角街道の難所の一つである湯瀬峡谷では、その大崖や天狗橋の辺りに特に嶮しく、
この峡谷に街道が通じたのは、かなり後世のことであろう云われている。
伝説では、天狗が一夜のうちに天狗橋を架けたので、人馬が通るようになったと伝え
ている。
盛岡藩『雑書』では、正保二年(1645)から湯瀬番所の存在を確認出来るので、その
頃には既に湯瀬を経て鹿角に入る道の出来ていたことが分かる。
湯瀬峡谷に街道が通じる以前は、伝承では、田山から瀬ノ沢川沿いに花輪越ハナワゴエを
越えたとも、湯瀬峡谷を避けてその南側八森の麓を辿って長嶺に出たとも云われている。
△花輪越え
だんぶり長者伝説では、田山の奥平又ヒラマタに住む長者が、諸人の便を図って現在の切
通キリドオシの集落に、切通し道を開削し、日泥ヒドロを経て花輪越に至る道を開いたとして
いる。
△長嶺への道
長嶺には、牛渡ウシワタリとか塩俵シオダワラなどの地名が残っており、古い交易の跡を留めた
ものと云われている。
△谷内への道
更に、湯瀬の板戸沢イタドノサワから八森の南側を越えて、谷内へ出る古道があったとも伝
えられている。
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