△第三段階 − 大化改新から平安時代初期まで
 第三段階は大化改新から平安時代の初期までである。大化改新からあまり時が隔たら
ない時期に、国造制に代わる新しい地方制度として国郡制が施行された。蝦夷の地域を
管轄する「国」としては陸奥国と出羽国が置かれ(陸奥国の南半部は前の段階では国造
制が行われていた地域に当たっている)、平安時代初期までに国造制が行われていなか
った地域のうち、盛岡市と秋田市を結ぶ線以南の地域に城柵が造営され、「郡」が建て
られて、陸奥国と出羽国の領域に組み込まれた。
 しかしこれ以北の地域については、平安時代の末近くまで、郡が建てられて政府の直
轄支配地に組み入れられることはなかった。城柵を設置すると、その地域には東北地方
南部や関東・中部地方から多くの移民が導入されたし、「エミシ」を他地域に強制移住さ
せることも行われている。
 
 この段階で政府の直轄支配地に組み入れられた盛岡市と秋田市を結ぶ線以南の地域は、
弥生時代・古墳時代に遡って、国造制が行われていた地域と文化伝統を共有する地域(仙
台平野・大崎平野・米沢盆地など)と、それ以北の文化伝統から云えば、寧ろ北方世界に
連なる地域に分けることが出来る。南の仙台平野などの地域は、七世紀末・八世紀初頭ま
でに政府の直轄支配地に組み入れられたが、宮城県北部から北と秋田県に属する部分は、
奈良時代の後半以後に直轄支配地に組み入れられている。このように文化伝統の点でも
直轄支配地に組み入れられた年代の点でも、より南の部分と北の部分では違いがあり、
第三段階は前半の小期と後半の小期に分けて考えると分かりやすい。
 
 この段階の特徴は屡々政府軍の大軍が組織され、蝦夷の軍との戦いが行われたことで
ある。戦いは前半の小期にもあったが、取り分け大規模な戦いは後半の小期に見られる。
代表的なものとしては宝亀十一年(780)に起きた伊治公コレハリ(イジ)ノキミ呰麻呂アザマロの乱
と、延暦年間(782〜806)に坂上田村麻呂が登場して、阿弖流為アテルイらに率いられた岩
手県胆沢イサワ地方の蝦夷の軍とが激しく戦った例を挙げることが出来るであろう。
 この段階の前半の小期において既に、政府の関心は北海道に至る北方世界にも向けら
れ、斉明サイメイ朝には阿倍比羅夫アベノヒラブに率いられた百数十艘もの水軍による遠征も行
われた。そしてこのような状況を反映して「エミシ」の語義にも、政府の直接支配の外
の人達と云う点に加えて、文化伝統の異なる人々と云う点が意識されるようになって来
る。
 また矢張り斉明朝頃に「エミシ」の漢字表記が「毛人」から「蝦夷」に変わるが、こ
の変化の要因は、天皇の徳を慕って来貢する異族の存在を主張アピールする意図が篭められ
ていたから、この面からも「エミシ」の異族としての要素が強調されることになった。
 
△第四段階 − 平安時代初期から平泉藤原氏の時代まで
 第四段階は平安時代初期から同末期の平泉藤原氏の時代までである。この段階では陸
奥国・出羽国の領域の拡大は無く、盛岡市と秋田市を結ぶ線以北が蝦夷の地域である状態
が長期に亘って継続した。前段階の最終場面で、政府側が大軍を投入して領域の拡大を
企てる政策を放棄したからである。ただしこの段階においては、政府側の政治的・経済的
・文化的な影響はより強力に、北海道を含む北方に及ぶようになっている。
 秋田県北部の蝦夷の反乱である元慶ガンギョウの乱、蝦夷系の大豪族安倍氏が滅亡した前
九年の合戦、清原氏の内部分裂に端を発した後三年の合戦、この前九年・後三年の合戦の
結果を踏まえて成立した平泉藤原氏の政権の出現、また近年の考古学的な研究によって
知られるようになった、東北地方北部から北海道の一部に及ぶ防御性を高くした集落の
盛行などは、全てこの段階における出来事である。
 そしてこの段階の蝦夷は、盛岡市と秋田市を結ぶ線以北の本州及び北海道の住民のこ
とであり、政府の直接支配の外の住民と云う語義は失われていないものの、異文化の担
い手である北方の人々と云う側面が強く出て来ることになる。そしてこの段階の最後に
近い頃に「蝦夷」の読みが「エミシ」から「エゾ」に変化する。
 
 「エゾ」と云う読みの古い例としては、久寿キュウジュ二年(1155)に没した藤原顕輔
アキスケの「あさましや千嶋のえぞのつくるなるとくきの矢こそひまはもるなれ」(『夫木
和歌抄』)、藤原親隆チカタカが久安六年(1150)に詠んだ「えぞがすむ津軽の野辺の萩盛
りこや錦木ニシキギのたてるなるらん」などの和歌が知られている。これらは12世紀のもの
であるが、治暦ジリャク三年(1067)に陸奥守に任じた源頼俊ヨリトシが衣曾別嶋の荒夷を討っ
たと云う史料があり、この「衣曾別嶋」の「衣曾」を「エゾ」と読むのであれば、11世
紀には「エゾ」と云う読みが生まれていたことになる。
 そしてやがて「エゾ」は北海道の住民を指す語として定着するが、ここに挙げた初期
の「エゾ」と云う読みの史料の中には、親隆の和歌で津軽と云う語を導き出すために「
エゾ」が用いられているものもあることは注意せねばならない。「エミシ」が「エゾ」
と変わった当初の段階の「エゾ」は、東北地方北部の住民を含む語義であったのである。
 
△第五段階 − 鎌倉時代以後
 蝦夷の題五段階は、平泉藤原氏の時代の後半過ぎから、鎌倉時代以後である。平泉藤
原氏の時代の後半過ぎからの大きな出来事として、本州の北端近くまでの地域に「郡」
が置かれ、政府が直接支配する領域の拡大が行われたことが挙げられる。このような体
制を作り上げる役目を担ったのが平泉藤原氏であるとされており、鎌倉幕府が成立する
と、この体制は更に強固なものとされ、本州の北端部は北条氏の把握するところとなっ
たのである。そしてこの段階になると、幕府の手を通してではあるが、政府の直接支配
の外の地域は北海道だけになった。こうなるとなお政府の直接支配の外の住民、即ち蝦
夷として残ったのは、北海道の住民と云うことになる。そして津軽海峡より北の蝦夷は、
やがてアイヌ民族を形成することになるのである。
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