02a 鹿角歴史年表(青字は『白鳥伝説』による)
 
承和4(837) 四月、陸奥出羽按察使が、陸奥の百姓の騒乱を報告する。

嘉祥元(848) 二月、上総国の俘囚が反乱を起こす。

貞観11(869)  この前後、陸奥に天災と反乱が頻発する
 
貞観17(875) 五月、下総国の俘囚が反乱を起こす。七月、下野国の俘囚が反乱を起
こす。

元慶2(878) 三月、出羽国の俘囚が反乱を起こし、秋田城を襲う。
元慶2(878)  夷俘の反乱起こり秋田城や官衙民家を焼く(元慶の乱)
        △8月陸奥権介坂上好蔭兵二千人を率いて流霞道より秋田営に至る。
         9月鎮守将軍小野春風軍470人を率い、まず鹿角に入り賊を降伏さ
         せ、夷首7人を従えて秋田営以北に到着する。鹿角(上津野)は火
         内・榲渕・野代など賊地12村に数えられる。
         [詳細探訪]元慶の乱のこと
 
元慶7(883) 二月、上総国の俘囚が反乱を起こす。

承平5(935) 二月、平将門が常陸国で反乱を起こす。
承平5(935)  平将門の乱起こる
        △この頃の集落として、菩提野・鳥野・小平・源田平・歌内・飛鳥平・北の
         林・中ノ崎・一本杉・案内・妻ノ神・乳牛などが知られる。
 
天慶2(939) 四月、出羽国の俘囚が反乱を起こす。
天慶2(939)  出羽国の俘囚が反乱し、秋田城の軍と合戦した
 
長和5(1016) 一月、藤原道長が摂政となる。

永承6(1051) この年、陸奥の俘囚安倍頼時が叛き、源頼義が陸奥守となって、こ
れを攻める。ここに前九年の役が始まる。
永承6(1051) 安倍頼良、陸奥守藤原登任らと戦い、前九年の役始まる
 
天喜5(1057) 七月、安倍頼時が源頼義に討たれる。頼時の子の貞任、宗任らが抗
戦する。一一月、安倍貞任が源頼義に勝つ。

康平元(1058) 能因歌枕の能因法師没す(推定)
        △「錦木はたてなからこそ朽にけれ けふの細布むねあはしとや」
         (後拾遺和歌集)に、初めて「錦木」「けふの細布」の歌枕表れる。
         [歌枕「錦木の郷」の古歌]表示
         「歌枕蘇生」

康平5(1062) 九月、源頼義が出羽の俘囚清原武則とともに衣川関、鳥海柵と攻め、
厨川柵で安倍貞任を討つ。宗任は降伏する。かくして前九年の役は終る。
康平5(1062) 安倍貞任、廚川柵に滅び、前九年の役終わる

永保3(1083) 九月、陸奥守源義家が赴任し、清原家の内紛に介入して真衡を助け
家衡を攻める。いわゆる後三年の役が始まる。
永保3(1083) 清原真衡、弟家衡・藤原清衡と戦い、後三年の役始まる
 
応徳3(1086) 一一月、譲位した白河上皇が引きつづき政務をとる(院政の始まり)。

寛治元(1087) 一二月、源義家が出羽金沢柵で清原家衡、武衡を討ちとったと報告
する(後三年の役が終る)。
寛治元(1087) 源義家、清原家衡を金沢柵に滅ぼし、後三年の役終わる
 
寛治3(1089) 藤原清衡、陸奥押領使となり奥六郡を領す
        △この頃の遺跡として、高屋太田谷地に鍛冶場を持つ集落跡、久保田
         向かい勘忍沢より14基の製鉄炉が発見された。
 
長治2(1105) 二月、藤原清衡が陸奥国平泉に中尊寺を建てる。

永久5(1117) この年、藤原基衡が平泉に毛越寺を建てる。

天治元(1124) 清衡、平泉に金色堂竣工す
 
大治元(1126) 三月、藤原清衡が中尊寺金堂などの落慶供養を行う。
大治元(1126) 清衡、中尊寺を建立し、盛大に落慶供養を行う
        △この頃清衡が白河関から外ケ浜までの間一間ごと笠卒都婆を建てた
         所謂奥大道が、二戸郡から鹿角・比内郡に入り津軽へ向かう。
 
不詳      基衡、毛越寺金堂を建立す
        △基衡が毛越寺金堂本尊を刻した仏師運慶への礼物として奥州の特産
         物を送った中に、鹿角産と考えられる「希婦細布二千端」が含まれ
         る。
 
仁安2(1167) 二月、平清盛が太政大臣となる。

嘉応2(1170) 五月、藤原秀衡が鎮守府将軍となる。
嘉応2(1170) 藤原秀衡、鎮守府将軍に任命される
 
養和元(1181) 秀衡、陸奥守に任ぜられる
 
文治元(1185) 三月、源義経が長門国壇ノ浦で平氏を破る(平氏が滅びる)。一一
月、源頼朝が義経追討の院宣を承ける。
文治元(1185) 壇浦の戦、平氏滅亡す
        義経、京都を脱す
 
文治3(1187) 義経、秀衡の許に潜居す
        秀衡卒し、息泰衡陸奥出羽押領使となる
 
文治5(1189) 四月、源頼経が藤原泰衡に攻められ、平泉の衣川館で討たれる。八
月、源頼朝が泰衡追討で平泉に入る。九月、泰衡が郎従に殺され、奥州藤原氏が滅び
る。
文治5(1189) 義経、衣川館に滅ぶ
        頼朝軍忽ち奥州を制圧す
        泰衡、比内にて河田次郎に討たれる(以上奥州合戦、平泉藤原氏滅ぶ
        )
        △9月初め藤原泰衡、鹿角を通り比内贄柵河田次郎を頼る。
         河田次郎、泰衡を討ちその首を陣ケ岡の源頼朝本陣に届け、却って
         誅殺を受ける。
         武蔵国御家人成田助綱、鹿角郡地頭職に補任される。
 
建久2(1191) 南部光行主従、甲州から八戸浦に上陸すと云う
 
建久3(1192) 七月、源頼朝が征夷大将軍となる。
建久3(1192) 源頼朝征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開く
 
元久2(1205) 畠山重忠滅亡
        △畠山重忠三男重慶鎌倉を脱し、天台宗修験となり二戸郡浄法寺の祖
         となると云う。
 
正安元(1299) △8月11日長牛館内に板碑建立される。銘文は幽儀平道叔敬白と読み
         取れ、平姓秋元氏の造立と見られる。
 
正安2(1300) △閏7月7日小豆沢大日堂境内に板碑建立される。造立者藤原秀□・秀
         有は成田氏と見られる。
         同月、谷内観音堂境内に板碑建立される。偈文に大般涅槃経の一部
         を刻む。
 
嘉元3(1305) △7月□日谷内観音堂境内に板碑建立される。偈文に金剛般若婆羅密
         多経の一部を刻む。
 
正和2(1313) △5月30日谷内観音堂境内に板碑建立される。緑泥片岩を用い、典型
         的な武蔵型板碑である。
 
年代不明    △谷内観音堂境内の岩壁に、鎌倉期の磨崖仏と云われる阿弥陀三尊が
         刻まれる。
 
文保2(1318) △12月幕府関東下知状を発し、安保次郎行員に祖母藤原氏女の所領跡
         地である柴内村を領地せしめた。
 
元亨元(1321) この年、津軽安東氏一族の間に分裂抗争が起こる。

正中2(1325) 幕府蝦夷管領職を安東季長から宗季に移し、争乱起こる
 
正慶2(1333) 五月、新田義貞が鎌倉を攻め、北条氏が滅び鎌倉幕府が滅亡する。
元弘3(1333) 鎌倉幕府が滅ぶ
        北畠顕家、陸奥守に任命され、11月末多賀国府に着任
 
建武元(1334) 4月北条方大光寺城落城し、持寄城に籠る
        11月持寄城落城す
        △11月津軽北条氏余党の乱ほぼ平定。
 
建武2(1335) 8月足利尊氏鎌倉で反乱し斯波家長を奥州総大将に任命する
        11月顕家鎮守府将軍となる
        12月奥州勢を率いて西上
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