02 鹿角の建郡
参考:鹿角市発行「鹿角市史」
本稿は、鹿角を「京郡」また「けふの里」
「狭布の里」「京の里」「京郡」などと称し
たことについて、鹿角市発行「鹿角市史」よ
り抜粋して、集成したものです。 SYSOP
鹿角の建郡
『吾妻鏡』文治五年(1189)九月の条に、東の糠部郡(岩手県)と西の比内郡(北秋
田郡)の名が見え、北の平賀郡(青森県)は建保七年(1219)の初見、また南の山本郡
(今の仙北郡)は九世紀前期の延暦末から弘仁年代に成立していたと考えられている。
以上から推察すると、平安末期までに糠部郡や比内郡と同時期には建郡されていたと
見ることが出来よう。
近世の『鹿角由来記』など類本には、その痕跡をとどめたものかも知れないと思える
二、三の説話が納められている。
一、(鹿角ヲ京郡キョウノコオリト申事)昔都より左少弁遣わされ鹿角御見分遊バされ候に似た
りトテ京ノ郡鹿角庄と申候。
一、(京都ヨリ禁中エ御年貢布上ゲ申事)京都禁中様御台(所)領ニ御座候ニ付御年貢
ニ布三百端宛上け申候所ニ禁中にて三百一端なり申候を御不審ニ思召オボシメサレ候トテ壱
端は錦木より出申候布替御座候実ニや細布ハはたはりせまくて身をもかくさねば胸あい
がたき故京ノ細布むねあわじと申伝候(下略)
鹿角を『けふキョウ』の里、「けふ」の郡と呼んだのはかなり古い時代かららしく、江戸
時代にはすっかり定着を見た。天明五年(1785)菅江真澄遊覧記の『けふのせばのの』
や同八年の古川古松軒『東遊雑記』などに詳しい記述がある。右の説話では、都から遣
わされた役人が京によく似た地域と云うので「京の郡」と名付けたと云う。錦木塚伝説
では古川村の娘が鳥の羽毛を混ぜて布を織ることから「毛布ケフ」の里・郡になったとし、
或いは狭い細布の強調から「狭ノ郡」と表現している例もある。右の二つめの説話では
御年貢に布三百端としながら、過納の一端を錦木塚伝説に結び付けようとしている。こ
のような伝承は特殊奥布の生産増加を示唆し、そのことを建郡に結び付けて考える説も
ある。即ち、十二世紀前半、糠部・鹿角・比内など、砂金・馬・布などの所当年貢としての
特産物を確保するために新たな郡が建てられたと云う。
なお「毛布」について、『無名抄ムミョウショウ』は「けふのほそぬのといふは、みちのおく
に鳥の毛してをりける布なり」小袖などのように下に着るものなので、背中ばかりをか
くして胸までかからぬから胸合いがたき恋にたとえられたとしている。他の歌論集には
兎毛を交ぜて織った布ともあって、いずれ鳥や兎の毛を大量に必要とすることから狩猟
民、鹿角マタギと関連があるとも云われている。
[次へ進む] [バック]