[詳細探訪] 高梨子の稲荷神社の案内板 慶長七年(一六〇二)の佐竹氏の秋田転封に際して江戸幕府は確たる藩境を示さなか った。秋田藩と南部藩との境界付近には、鉱山資源(尾去沢など)や秋田杉などの豊富 な森林資源(長木沢など)があった。 慶長一〇年(一六〇五)ごろから国境論争が起ったが協議による解決が得られず双方 共に幕府に提訴した。しかし幕府はおって沙汰あるまでは論争地には手を入れぬよう指 示したに止まっていた。その間にも鉱山採掘や、立木伐採その他による争いが絶えず、 時には武士を加えた農民数百人による乱闘から多数の死傷者を出すなどの事件もあった。 延宝五年(一六七七)遂に幕府は四月に検使三人を派遣して論地を見分させ、六月四 日に評定所において裁決を言い渡し、墨引きの絵図を下付した。こうして七〇年にも及 ぶ論争もやったと解決した。 高梨子の稲荷神社はその節、秋田方の国境守護のため設けられた由緒ある神社である。 また数百本もある参道の杉並木は見ごたえがある。 平成元年八月一日 十二所史蹟保存顕彰会 十二所自治会
沢尻の道標兼庚申塔の案内板 佐竹氏が慶長七年(一六〇二)、秋田転封以来進めてきた道路整備も、天和元年(一 六八一)完了し「領中大小道程」が作られた。その中、最も重要な街道は羽州街道で院 内杉峠から矢立峠まで藩内を縦断し、道程は六三里一四町二三 間(約二四九キロメートル)であった。 鹿角街道(昔は南部街道)は、実際は岩瀬で羽州街道から分れるが、宿駅の関係から 綴子を起点とし、扇田、十二所を経て土深井境目を通り南部領松山村まで道程は八里一 三町四〇間(約三三キロメートル)であった。 この道標は土深井境目から約三〇〇メートルほど手前の旧鹿角街道沿いにあり、前面 中央に梵字と庚申、右には文政五年午十月吉日、右山道と、左には左南部道と彫られて いる。 旧十二所町には庚申塔は処々にあるが、道標を兼ねている庚申塔はここにあるものだ けである。 注昭和六十年秋田県教育委員会が調査した「歴史の道」の報告書四号にはこの道標の 説明、写真及び地図が掲載されている。 平成元年八月一日 十二所史蹟保存顕彰会 十二所自治会