「黒沢浮木の記録」
 
一、寛文八年(1668)夏、土屋但馬守様(老中)から申して来た
のは、南部との論地につき、老中で相談した結果、その個所の絵
図および山の形等を調べて、差し出すようにとのことで、早速使
者を出発させることにした。その前日、拙者(黒沢浮木)が陰の
間へ呼ばれ、人除けの上鑑照院様(義隆)から、つぎのように申
された。
 この度、御老中様からの御意なので、何等の異議も申述べよう
とは思わないが、この事件は、もともと此方の領分に対して、南
部からのいいがかりによって論地となったので、許すべきではな
いけれども、ここは、杉材木の数多くある場所であることを老中
でも知っており、御用材として伐採してきたが、論地となったた
めに役立てずにいるのである。だが、若し御用立てのため、その
役目を南部に申しつけても、その材木は能代川(米代川)を通行
させることは出来ないと、断る考えである。その理由は、野代川
沿岸の者共が、諸種の品物をこの河を利用して船で運んでいるの
で、他領の者と入り合ったならば、紛争が常に絶えないこととな
るからである。 このことを、十分考慮に入れて、江戸でいろい
ろ聞かれても迷わず答弁するようにとの御意があり、闇夜に光明
を得たように安心をした。
 
 その後、神尾若狭殿、市左エ門殿のところへ参ったら、若狭殿
が留守居だったので、市左エ門殿にだけ御逢いした。その際、い
ままでの事情を詳細に申し上げたところ、市左エ門殿の申される
には、杉の有る山を全部南部へ付けるならば、能代川を通さない
とのことのようだが、このような例は他にもあるのかとの御質問
なので、詳しいことは存じませぬが、尾張様(名古屋)の材木を、
飛騨守殿(岐阜)の御領分を通したことがあるそうだけれども、
それは短期間のことであって、後には尾張様の御領分へ出された
とのことである。
 
 この度の能代川のことを申し上げると、この河を通る船は皆能
代へ行くが、能代は秋田領である。第一、この川筋を野代川上の
侍・百姓共が多くの品物を荷下げするので、南部の者が入り合っ
ては、公事クジの争いが絶えないことと思われる。と申し上げた
ところ、御聞き入れになり、但馬守様へ御案内下され、持参の絵
図を御覧に入れた。
 
鹿角の時は流れ行く
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