「秋田側訴状(要約)」
 
 「三ツ矢沢は古から比内分で、この沢水で当領の別所村(比内
町)の田を作ってきた。佐竹氏が御入部以来、鹿角沼山(現尾去
沢)で金を掘るのに、鹿角の者共が三ツ矢沢へきて、留め木、薪
などを取ったが、これは木の代金を払っていたのだ。」
 また、「比内沼山という所は、昔、山の麓に沼があったので比
内山と申していた。その沼はいま浅くなってしまったが、それで
も僅かな残り水が沢尻川として流れているので、この水で沢尻村
の田地を作っている」。
 「慶長十九年(1614)に、鹿角の者共が沢尻川を越えて、中の
平という所の田畑の中に、長さ十間、横八尺ほどの溝を掘り、こ
こが境だと申した。そこで、当方からそれは違うと強硬に申し入
れをした」。
 「葛原境の横長根を越えて、小瀬沢の沢頭を長さ九間、横八尺
に鹿角の者共が、元和三年(1617)に掘って、ここが境だといっ
たので、当方から申し入れたところ、今度は、大きな石のある所
を三ツ石と名付けて、境であると申してきた。一体御国境と申す
のは、昔から定まっている筈なのに、申し入れをすると又別のと
ころを境と申す事は無い筈である」。このような事情に間違いあ
りませぬ。
   慶安三年九月二十八日
               十二所 中山 越後
               沢尻  刑部 左エ門
鹿角の時は流れ行く
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