次に「秋風」、これも"歌ことば"であるが、
 
 秋風の身に寒ければつれもなき 人をぞたのむ暮るる夜ごとに(古今集・恋二・素性)
 秋風にあふたのみこそ悲しけれ 我が身むなしくなりぬと思へば
                             (古今集・恋五・小町)
 
など、自然に浮かんで来る歌も多い。「秋風」は寒く、寂しいだけでなく、「倦アき」を
連想させるのである。
 先行の和歌において、既に思いの丈タケを尽くして表現され醸成されたこれらの"歌こと
ば"によって、この歌の抒情への体勢は上句において既に整った感もあるが、下句の「鶉
」と「深草の里」と云う取り合わせにると、上句のそれが問題にならぬ程、はっきりし
た印象イメージが繰り広げられて来る。『古今集』『伊勢物語』に見える在原業平と深草の
女の贈答を前提にしなければ、この歌の読解と鑑賞は不可能なのである。
 
 深草の里に住みはべりて、京へまうで来クとて、そこなりける人によみておくりける
                                 (業平朝臣)
 年をへて住み来コし里を出でていなば いとど深草野とやなりなむ
 返し                              よみ人知らず
 野とならば鶉と鳴きて年はへむ かりにだにやは君が来ざらむ(古今集・雑下)
 
定家筆本の『古今集』の本文を掲げたが、これを見れば、「野辺の秋風」が、「年をへ
て住み来し里」を男が「出でて」「行ったために」「いとど」草深くなった「深草の里
」の「野辺の秋風」であることが分かるし、「鶉鳴くなり」の「鶉」は「いとど」草深
くなった「深草の里」で鶉となって鳴きながら男を待つ鶉であることが分かる。
 「秋風身にしみて」と云う表現は、俊成のこの歌との前後関係がはっきりせぬ『新古
今集』の読み人知らずの歌、
 
 心にはいつも秋なる寝覚めかな 身のしむ風の幾夜ともなく(恋四)
 
以外に例を知らないが、この『新古今集』の歌でも、「秋風」即ち「倦アき風」が「身に
しみて」「寝覚め」勝ちであると言っているように、「秋風」が「身にしむ」主体は人
間でなければならない。それなのに「秋風身にしみて鶉鳴く」と言い得たのは「鶉と鳴
きて」(『古今集』の古写本の多くや『伊勢物語』では「鶉となりて」)、即ち「鶉と
なって鳴いて」とあるからである。女と鶉が一体となって鳴(泣)いていることが前提
にあったからである。
 しかし、それは飽くまでも前提である。私は、このような背景、このような情趣を、
全て取り込んだ上で、俊成が「鶉鳴くなり」と助動詞「なり」を用いて言い切ったとこ
ろにこそ、この歌の眼目があると思う。終止形に接続する「なり」は伝聞推定の助動詞
と言われたり詠嘆の助動詞と言われたりしているが、要するに、自分が知覚したことを
自分の認識として昇華させつつ抒情する助動詞なのである。
 
 『古今集』を始めとする三代集時代の和歌であれば、前に「秋風」に関連して引用し
た「秋風の身に寒ければつれもなき人をぞたのむ暮るる夜ごとに」(古今集・恋二・素性
)のように、女に成りきり、女の立場から抒情して終わっていたと思う。しかし、俊成
は、諸々の言葉によって諸々の背景と情緒を作り上げながら、「鶉鳴くなり」と詠むこ
とによって、対象との距離を示し、作者の立場から卓越した時空を現出したのである。
正に「情」を尊重しつつ、「情」を昇華させた「景」の世界を作り上げたと言えるので
ある。
 僅か一例についてしか見ることが出来なかったが、『千載集』や『新古今集』が古典
和歌完成期の撰集であることを、いみじくも示している。一つ一つの歌の"ことば"が、
一つ一つの「情」の世界を持っていることを承知した上で、それらを連ねて全く異なっ
た新しい美の世界を作り上げる、正に言語芸術として完成した域に至りつつあることに、
改めて感心させられるのである。
 
 時代による変化・変遷は当然あるけれども、民族の文化の中央を絶えることなく流れ続
けて来た和歌は、民族の発想と表現の規範となって、その抒情と美意識に深く関わり、
物語・日記・謡曲・俳諧などの和文脈作品の文体を支えて来たばかりか、絵画を中心とする
美術工芸の意匠にまで影響を与えて来た。いわば民族の表現の典型であり、正しく古典
と称するに相応しいものであったのだが、このように和歌が古典であり得た最大の理由
は、その絶えることのない流れの中に、"ことば"を道具と見なしたり、"ことば"に対し
て物の表示や事柄の伝達の役割だけを押し付けたりすることなく、自らの愛と情の限り
を周りの風物に託し、最も凝縮した"ことば"を用いて、最も美しく表そうと努力し続け
て来たことにあると私は思う。
 このような古典和歌の歌枕・"歌ことば"の一つ一つについて、じっくりと味わい、その
印象イメージを大きく膨らませてみよう。我々の祖先の「情」と「美」の和声ハーモニーが聞こ
えて来る筈である。そして、こんなにまで意味と律調シラベが見事に溶け合った美しい"こ
とば"が存在していたことに驚かされる筈である。
前画面へ戻る
[バック]