「或る人問う」 立て前と本音の違いにより、時処位の在り方も異なるのか。 「我は想う」 時処位は常に蘇生し続け、「信頼の輪 - 和」を形成しながら万物の営み - 世界に 貢献していると述べた。 また作為的な目論見によって、時処位に制限を加えると、時処位は停滞したり、歪ん だりすると述べた。この原因は、西洋思想 - 万物を造物主と被造物とに二分する考え 方を、間違った形で受け入れ、又は誤って適用したではないかとも述べた。 例えば、被造物(人間を含む万物)は造物主(唯一の神)の許にすべからく平等扱い されるので、被造物間同士では有機的関係は生じない、とする観念である。互いに結ば れようと、分かれようと、それは造物主のみの特有の権利である故、被造物間ではどう しようもないと云う考えが、根底にあるのである。また、被造物は造物主のためのみの 行動に価値があり、目的達成の幸福感があるのである。従って時処位による、不公平と も思える役割分担には馴染めない、との先入観があるからであろうと想う。 しかし、実はこの考えには、立て前と本音の二面性があるのである。例えば、管弦楽 団と指揮者においては、指揮者固有の権利である指揮棒の指示により、それぞれの楽器 の演奏者達は、自分の出番をじっと待っていたり、或いは激しく演奏したりする。これ は、未だ真の意味での時処位には到達していない。 感動的に演奏された成果は、原則的には(立て前的には)聴衆の頭上遥か彼方におら れる造物主への捧げ物であったり、造物主の徳への賛美であったりである。しかし実は その演奏会場に集う人々全員、指揮者も演奏者も聴衆も、そして主催者側を含む全ての 人々が、有機的に一体感を得たと云う、生々しい歓喜が醸成されて初めて、目指す時処 位が達せられるのである。演奏会場に居合わせた全ての人々の鼓動が高まる、これこそ が、時処位の最たる効用なのである。 立て前のみを重要視し、形のみの時処位、即ち「写真写りの好い容貌」に重点を置き 、一人一人の息遣いを無視しての時処位を目指したから、時処位が停滞したり歪んだり したのであると想う。 いわゆる一神教の次元、多神教の次元とにおいては、観念の組立においては相反して いる。一神教の次元においては、指揮者の指示には、演奏者は絶対に従わなければなら ない。指揮者のみが、神のために演奏を統括し、指揮する任務を帯びているからである と考えられる。 多神教には指揮者はいない。例えば神社祭式において、祭式の長である宮司は、神前 に最も近い位置で神に奉仕する。軾ヒザツキ(神前において宮司などが膝を突いて坐る敷物 )を神前まで上げ下げする所役(役目)を任せられた祭員などは、神前から遠く離れた 位置で出番を待っている。出番が廻ってくると、自らの意志で神に奉仕すると云う誠を 以って、その所役を全うするのである。祭員は各々、神に奉仕する心には軽重がないの である。それぞれの祭員は、それぞれが主役となって神に奉仕するのである。 わが国に生まれた駅伝も然りである。平坦な道を得意とする選手、坂道に強い選手、 長距離に耐え得る選手など、監督に選ばれた選手達は、自分の得意とする分野で、他と 競り合いつつ自分の力を発揮することの結果が、チームの成績を左右するのである。 このことは、形の上からは、見極めることは難しい。 演奏会場が全て一体となって歓喜に沸くことは、確かに時処位の成果ではあるが、そ の歓喜は単なる歓喜だけなのではないだろうか。一方、神輿を担いで激しくもみ合って 神威を戴くのは、もみ合うことによる躍動感と、そのことによって個々人が神と一体感 になったと云う実感とが合わせて得られるのである。駅伝もまた、自己の精一杯の努力 がチームの成績に反映され、喜びを分かち合うことが出来るのである。 |
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