GLN町井正路訳「ファウスト」

第十九場 夜、街頭

 マルタとマーガレットは物音に驚きて窓より叫ぶ。
 
マルタ  誰か来てください、出てください。
 
マーガレット  此処へ燈火を迅く。
 
マルタ  喧嘩々々、罵ったり叫んだり、大変です。
 
人々  やあ、此処に誰か倒れて居る。
 
 マルタとマーガレットは戸外に出る。
 
マルタ  下手人は逃げて了いましたか。
 
マーガレット  殺されたのは誰です。
 
人々  お前さんの御母さんの息子だ。
 
マーガレット  えゝ、神様、まあ、どうしたらよいでしょう。
 
ヴァレンチン  我輩はもう死ぬるぞ、一言云うて置くことがある、あゝ、そう云う内に息が絶える、 お前たちはなぜ泣いたり呟いたりして立って居るんだ、此処へきて我輩の云うことを 聞いて置け。
 
 人々ヴァレンチンの周囲に集まる。
 
 マーガレット、よく聞け、お前はな、未だ年が若い、未だ世の中に疎い、だからやり 仕損(しくじっ)たのだ、確かと云うて置くぞ、お前は一度背身を汚した以上は何処ま でも本気になってやれよ。
 
マーガレット  神様、兄さんは何を有仰るのでしょう。
 
ヴァレンチン  此の嬉戯事(たわけごと)に神の名を呼ぶな、既にやった事はやらないことになるもの か、何事も自然の行路を辿って行くものさ、お前が密(こっそ)り誰かと事を始めたら 直ぐ他の男もやってくる、十人の男を持ったとなれば、もう町中の人に許した様なもの だ。
 
 羞恥(はじ)と云う奴を初めて此の世に産み落した時は、大々的秘密の私生児なんだ、だから 暗夜でも耳の下まで頭巾(ずきん)を被せて、間がよかったら絞殺して仕舞(しまお) うと思うて居るんだが、其中に段々成長して、白昼得意然と歩き出す、美しい所は一点 もなく、醜くなればなる程日の光を好む様になるものだ。
 
 こうなった日には、心ある正直な人々は伝染病で死んだ屍を嫌う如に、お前の様な 淫婦(いたずらもの)に顔を背けるは必然だ、又顔を見られた時は気が咎めて、穴へ でも入りたくなる、最早お前は花嫁となって、黄金の鎖を飾ることもなし、教会堂の 壇上に誓うこともあるまい、又美しい襟飾で、舞踏の席に押出すこともあるまい、 お前は定めし暗い汚ない巷(まち)に、乞食や非人の中に交って身を終ることだろう、 よし神はお前の罪を許してくださるとしても、此の世は爪弾きされて過ぎるであろう。
 
マルタ  後生を御願いなさい、あんまり悪口を云うと、魂が浮ばれませんよ。
 
ヴァレンチン  なに、此の恥知らずめ、手前の皺頸を切ってやりたいが、手が利かんのが口惜しい、 若し手前を殺すことが出来たなら、いくら罪があっても許されて了うわい。
 
マーガレット  あゝ、地獄の苦しみ、兄さん。
 
ヴァレンチン  泣くな、泣くな、後生だから、お前が堕落した時、既に我輩の心臓は刳り取られて 居るじゃないか、今軍人らしく死に就いて、天国へ行くのに、悲しいことがあるものか。
 
 ヴァレンチン息を引取る。

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