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ファウスト
御嬢さん、私が初めて此庭に来た時見覚えが有りませんでしたか。 マーガレット 妾は下を向いて居りましたから。 ファウスト いつぞや、教会堂から出て来られた時、誠に破廉恥な事を致しまして申訳がありま せん、どうぞ御勘弁を願います。 マーガレット 是迄一度もあんな目に遇った事がないものですから、誠に困りました、然し当惑致す のが当然(あたりまえ)で御座いましょう、あの時妾の挙動に、何か女らしくない乱暴 めいた処が有りましたでしょう、何だか貴郎が急に、こんな娘に何の遠慮も礼儀も要る ものかと思いなされた様な御様子でしたもの、妾は腹蔵なく申しますが、何だか貴郎を 弁護する様な気が起こったのです、乍併あの時は実際貴郎に怒る事が出来ないので只だ 自分で自分を叱って居りました。 ファウスト 御尤もです。 マーガレット 暫時(すこし)御待なさいな。 桜草の花を摘み採り一つずつ葉をむしりながら。 ファウスト どうなさるの、花束ですか。 マーガレット いゝえ、戯(いたずら)よ。 ファウスト 何ですって。 マーガレット 先へ行ってください、御笑いなさるでしょう。 (葉を摘み取りながら何か呟いて要る。) ファウスト 何を呟いて居るのです。 マーガレット (少し声を高く) あの方は私を愛してくださるか知ら、其れとも駄目か知ら。 ファウスト 貴女は天女の様に見えますよ。 マーガレット (語を続けて) 愛して下さらない、おや、愛して下さるって、おや (嬉しそうに最後の葉を摘みながら) あの方は妾を愛して下さると云う辻占よ。 ファウスト 此の花の言葉を神託と御思いなさい……あの任は妾を愛してくれる……意味が十分 御解りですか。 (娘の両手を握る) マーガレット 妾は此様(こんな)に戦(ふる)えて居ります。 ファウスト 慄えなくっても宜しい、貴女を凝視(みつ)むる此の目、あなたを握る此の手は、 口では云えない処を説明して居ります、貴女と合体して限りのない幸福を感じました、 実に無限の幸福、此の幸福の終りは絶望でしょうか、いやいや此の幸福は決して終って はなりません。 マーガレットは握られた手を振りはなして走り去る。 ファウストは暫く思いに沈み、やがて娘の後を追うて行く。 マルタ (近寄り来りて) 大分暗くなって参りましたね。 メフィスト 左様、もう御暇しましょう。 マルタ 今暫く茲に居て戴きたいんです、此の辺はどうもよくない処で御座いまして、隣人の 出入を彼是評判するより外に目的も仕事もない様に思うて居るのです、ですから、する事 なす事皆風評に上ります、そう云えばあの若い好いた同士は何処へ行きましたろう。 メフィスト 向うの歩道を飛び上(のぼ)って居ります、雄蝶雌蝶の様に。 マルタ あの紳士はマーガレットを慕って居られる様ですね。 メフィスト マーガレットもあの紳士を……、世の中は旨く出来て居ります。 |
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