GLN町井正路訳「ファウスト」

第六場 魔女の厨房

 ファウストは最前から鏡の前に立って、近づいたり遠ざかったりして居る。
 
ファウスト  僕の見て居るのは何者だろう、此の不思議な鏡に天女の姿が映って居る、出来るもの なら恋の明星の翼を得て、あの女の傍へ行って見たい、天女は手近に見えるが、情ない から触れることが出来ぬ、此の一点から少し前進しても、姿は霧に包まれて朦朧となる、 何んたる美しい姿だろう、女は果して此の様に美しいものであろうか、鏡面の幻影は 天上の真髄精華に相違ない、地上に斯の如きものがあるだろうか。
 
メフィスト  造物主が六日間の辛労の後で、初めて自ら絶妙と叫んだ時、何か見るべき価値のある ものができた事は明白です、よく見て御置きなさい、之と同じ美人を誓って御世話します から、あの様な花嫁を携えて帰宅(かえ)る人は実に羨ましいものですな。
 
 ファウストは尚鏡を見て居る。メフィストフェレスは長椅子に横わり 羽箒を弄びながら尚話しを続ける。
 
 僕はこう坐ると王様が玉座に鎮座まします様だが、此の羽箒が笏、はて冠の無いのが 玉に疵(きず)だよ。
 
猿共  (今迄滑稽を演じて居たが、大きな声で叫びながらメフィストに冠を 持ち来る)
 君の捧げん王冠を、
 王冠未だ半ばなり、
 願くは君が汗と血とを得て、
 美観(みごと)に仕上げて参らせん。
 
 不作法に王冠を持ち廻る機(はずみ)に落ちて二片となる、 彼らは其の破片を持ち躍り狂う。
 
 王冠既に破摧しぬ、
 我業既に成れるなり、
 天与の権は蘇り、
 言論の自由我にあり。
 
ファウスト  (鏡に向い) あゝ俺は気が狂(ちが)いそうだ。
 
メフィスト  (猿を指して) おや之は不思議だ、頭が急にぐらぐらして来たぞ。
 
猿共
 幸運転じて民に帰し、
 天性訥吃なりし者どもも、
 天来の思想輝きて、
 人権の理を主張しぬ。
 
ファウスト  (尚お鏡を見ながら) 俺の胸は此の幻影(おもかげ)に焦れ始めたのだ、すぐ此処を引上げよう。
 
メフィスト  (前と同じ姿勢で) どの道彼等が真面目な詩人たるは、何人も之を拒むまい。

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