GLN町井正路訳「ファウスト」

第二場 城門の前

ファウスト  あゝ、此の迷誤の大海から浮び上がる事が出来ると思うて努力する人は幸福者だ、 人間の了解らぬ事が必要で、知って居る事は少しも役に立たぬ、乍併、折角楽しい 時を、悲しい追懐に耽けるのは止めよう、身給え、緑に囲繞(とりかこま)れた民家 が、夕陽に輝いて居る景色を、太陽は西に傾いて沈んで了うと今日は終わるのだ、 然し太陽の急ぎ飛び去るのは、更に新たなる生命を彼方に布くためである、あゝ、 此の地上を離れて、永久太陽の後を追うて行かれる羽翼を得たいものだ、若し夫が 出来たなら、夕陽に照されて静かに横たわる大地を、我が脚下に見る事が出来よう、 燃え立つ様な峯巒、眠って居る谷、さては黄金色に光る大河に貢して居る銀色に 輝く小川などが、ありありと手に取る様に見えるだろう、彼の峨々たる峻嶺も、其の 暗黒な谿谷も、神の如き我が歩みを沮礙(さまた)げる事は出来まい、あゝ、大海は 既に温められた多くの入江を懐いて今我が恍惚たる眼前に横たわって居る、日神は今 将に沈まんとして居るが失望はせぬ、余の胸中には新なる気力が動いて来た、余の 精神は光を追わんため早や脱け出でた、今日分の前は昼、後は夜、仰げば蒼々たる天、 見下せば澎湃たる波濤である、斯の如き奇想も、あゝ、太陽が没したから夢となって 了った、悲い哉肉体と云う奴は、容易く精神の翼と行動を共にすることができぬのだ、 けれど吾等の感情が前へ、又上へと憧れるのは蓋し人間の天性である、蒼々たる大空に 隠れ、節勇ましく歌う雲雀の声を聞た時、老松蓁々(しんしん)たる峯の上に翼を 伸ばして居る鷹を見た時、沼や海の上を己が棲家に急ぐ鶴の飛ぶのを眺めた時、誰か 向上の念に駆られぬ者があろうか。
 
ワグネル  小生(わたくし)も屡々妄想に耽った事はありますが、未だ先生の様に刺戟された事は ありません、称讃すべき自然も、林や野原を見つめて居ると、直ぐ飽いて了います、 小生は決して鳥の翼を嫉みません、書斎に閉じ籠って一巻から次巻へ、一頁から次の 頁へと心を移す時、名状すべからざる愉快を感じ、寒い冬の夜も暖く、四肢伸々として 限りなき幸福を受けます、まして聖賢の書を繙く時などは、有らゆる天の祝福が天降って 来るのです。
 
ファウスト  君は唯一個の感動を受ける許りで、決して二個の刺戟に触れる事はあるまい、あゝ僕の 胸には常に二個の心が潜んで居る、そして其の一は他の一と分離しようとあせって居る、 即ち一は肉慾的慾望であって、不手際な蔓を以て此の世に執着し、一は霧の裡から正常な 世界に昇ろうとして、熱心に悶(もが)いて居る、あゝ、天地を領して居る妖精が、若し 此の空間を上下して居るならば、黄金の雲の裡から降りて来て、俺に新しい生涯を与え てくれ、あゝ、知らぬ世界に導いて呉れる一領の神通衣があるならば、何んな高価な衣服 でも、よしんば帝王の召さるゝのでも、之と換えようとは思わない。
 
ワグネル  空中に遍く広がって、四方八方から人間に千様の危害を携来る、あの有名な悪魔の群を 呼び給うな、彼等は北から鋭い牙や、矢鏃の様な舌を以て襲い、東から乾燥した風となって 先生の肺に迫り、南方の荒漠たる砂原の熱地からは、火炎となって貴君の脳を圧し、 西の方からほんの一時は爽快の感を与えても、遂には野や、牧場や、人間迄も 溺らして了う様な雲霓(うんげい)となつてやって来ます、彼等は始終禍害に注意を払って、 人間を苦しめるのを面白がって居るのですから、喜んで先生の命に答えます、彼等は 神から遣わされた様な風を装い、人を欺こうとする時は、天使の様な口吻を用いるそうです、 さあ帰りましょう、四辺(あたり)はもう薄暗くなりました、空気が冷々して夜霧が 降りて来ました、吾々が家の真価を悟り得るのは只だ此の夕刻許りです、先生、 貴君(あなた)は何故黙して佇んで居るのです、何を爾(そん)なに驚いて凝視めて居る のです、何者が此の薄暗い処で貴君の注意を惹いたのですか。

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