私の神道「死後観」

霊魂は何処に居るのか

「或る人問う」
 ところで私共は、喜怒哀楽のとき、必然的に神の存在を意識する。
@喜んでいるときは、神による恩恵 − その恵みに感謝したい。
A怒っているときは、神による仕置 − 結果として、怒っている自分が罰せられる。
B「哀」のときは、神による慈悲 − 救援して欲しい。
C「楽」のときは、神による支配 − 理想の世界で楽しく生きる。
 
「我は想う」
 このようなときの神の性格(種類)として、私共は、
@唯一神を認識するかも知れないし、
A八百万神のうちの一つの神(守護してくれていると信じている神)を認識するかも知れないし、
Bまた、神話伝説の人、先人賢人、先祖……を認識するかも知れない。
 
「或る人問う」
 特に、私共がその時咄嗟に、かつ実感として思い浮かべるのは、 肉親たる先祖や身近な恩人の霊魂(以下「祖霊」と云う。)のことである。
 祖霊は、私共の周囲、つまり、あらゆる所 − 居室のどこか、また居宅の神棚(仏壇)、鎮守の杜、近くの野山などなど − に、 「住んでいる」〜「住んでするらしい」からである。
 
 であるから、私共の、万一の危急存亡に際して、祖霊は、瞬時に到来して 喜怒哀楽の稜威(沙汰)をもたらしてくれる……。
 
 その後、やや時間をおいて、元々の神が、その神徳を発揮することとなろう。
 
 何故ここに時間差が生じるかと云うと、
@元々の神側において、対象となるヒトを識別 − 信者であるかどうか、善人か悪人か − する時間を要することとなるが、
A祖霊側では、その対象となるヒト(子弟)は限られているので、 たとえ、そのヒトがどのような人 − 善人であろうが悪人であろうが − であっても、 待ったなしに行われる。
 
 このように考えてくると、祖霊は、子弟を四六時中観察している必要があので、
逝った後、
@天国極楽でのんびりとしていることは出来ず、 したがって、頭脳(思慮思考)の休止はあってはならない。
 例えば、あの子にはこんな弱点があった、彼には我が儘なところがあった、彼女には……
 また例えば、今年は風邪が流行るようだ、冷夏のようだ、黄砂が多いようだ……
 またまた、景気は……?!!
Aしかして、天上の遙か遠い所に住んでいては、時間的に間に合わないことになる。
 
「我は想う」
 と云うことは、祖霊は、私共の近くに住んで居られると云うのか……。

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