52a 上御霊神社・下御霊神社
 
△八所御霊
 
@崇道天皇:早良親王
 延暦3年(784)、桓武帝は長岡へ都を遷した。ここで事件が起こった。藤京種継暗殺
事件である。当時、長岡京造宮司であった種継は早良親王と敵対しており、親王が暗殺
事作の首謀者と見なされたのだ。早良親王は、桓武帝の同母弟である。
 乙訓寺に監禁され、淡路へ配流されることになった親王は無実であることを訴え、自
ら食を断った。そして10日余りが経ち、宮内卿、石川恒守らが淡路へ移送する途中、
高瀬橋頭で絶命した。恒守は、そのまま早良親王の遺体を淡路へ運んで葬った。
 異変が連続して起こったのは、それからである。桓武帝の妻の藤原旅子が死に、つい
で母の高野新笠、皇后藤原乙牟漏が次々と他界。さらに皇太子安殿の病気が長びいてい
るのを占ったところ、皇位を廃された早良親王の祟りとでた。朝廷はさっそく諸陵頭調
使王(しょりょうかみずしおう)らを淡路国へ遺わし、奉謝を行った。
 連続する天変地異、天皇の周辺に連続して起こる近親者の死。早良祟る、の思いは桓
武帝をはじめ為政者たち共通の思いであった。
 延暦19年(800)7月、桓武帝はついに早良親王に「崇道天皇」の尊号を贈った。
 
A井上大皇后・B他戸親王
 井上皇后〔聖武の女(むすめ)、孝謙の妹〕は光仁天皇の后である。
 池戸(他戸)皇子を生む。太子となったが、その後寵愛が衰え、天皇と睦まじくなく
なった。遂には天皇を呪詛し、太子を位に即けようとした。
 奸謀は発覚し、太子も陰謀ありとして没官され、当村に遷された。宝亀五年(774
)四月二十五日、井上(皇后)・池戸(他戸親王)は共に自滅(獄死)した。
 その霊が大いに祟りをなした。延暦十九年(800)に従五位下葛井王(かつらいお
う・かどいおう)を遣わし、勅して旧の如く贈官した。その墓を山陵(みささぎ)と称
し、その霊を御霊大明神と号する。陵は御山(みやま:吉野川の半里南、五条市御山町
)にある。
 
C火雷神:菅原道真
 昌泰二年(八九九)累進して右大臣に至り、右大将を兼ねた。この時藤原時平〔左大
臣・左大将〕と共に上皇(宇多)の勅を受けて天子(醍醐)を補佐し、万機を取り行っ
た。天皇が朱雀院に行幸した時、上皇は天皇に、右大臣は年配でありその賢才は国を挙
げて望む所である、専ら任用するがよい、と語った。そこで右大臣を召してその旨を宣
べると右大臣は固辞したので取り止めた。左大臣(時平)はこれを聞いて大いに恨み、
源光卿朝臣・藤原菅根朝臣と謀り、遂にはこれを譖った。天皇は疑わしく思ったが、左
大臣の妹が皇后となり、内外から讒言が行われた。
 昌泰四年(九〇一)正月二十日に九州大宰府に左遷され、延喜三年(九〇三)二月二
十五目配所で薨じた〔五十九歳〕。安楽寺に葬る。
 
D藤原大夫神:藤原広嗣
 広嗣〔不比等の孫。宇合(うまかい)の子である〕は吉備真備・僧正玄両人に遺恨が
あった。蓋し玄は功績があって大后(宮子皇太夫人)の側に従侍し、密かに通じた。独
り広嗣がこれを知ってその不義を奏するとともに、下道(吉備)真備を謗った。聖武天
皇は仏乗に惑い玄を疑わなかった。玄は却って広嗣を讒した。ここに至って広嗣は大宰
府の都督(大宰帥(そち))に左遷された。広嗣は大いに、怒り謀叛した。そこで大野
東人を大将、紀飯麻呂を副将として討たせた。広嗣は肥前遠珂郡も城にいたが、板櫃(
豊前)に出張って合戦した。広嗣は戦いに負け、船に乗って異国に逃れようとしたが、
肥前の松浦郡長野村で官兵安倍黒麻呂が広嗣を虜にし斬った。その弟の綱手も殺された
〔天平十二年(七四〇)十月〕。
 あるいはいう。広嗣の軍が敗北して自ら刀で首を切ると、その頸が大虚に昇り赤鏡の
ようであった。これを見た者は悉く怖れ死んだ。また、天平十八年(七四六)、大宰府
の観音寺供義の日、玄僧正が導師となり腰輿に乗った時、虚空に声がして玄を捉え去っ
た。後日その首が興福寺唐院に落ちた。これは広嗣の亡霊の所為であるとして、その霊
を豊後国鏡宮に祭ったという。
 
E文屋宮田麿
 文屋宮田丸〔淡海公の三男、藤原宇合(うまかい)の子〕
 仁明天皇の承和十年(八四三)、謀反の事が発覚し、捕えられて伊豆国に流された。
一族皆流罪に、なった。
 
F橘大夫:橘逸勢
 橘逸勢〔『神鏡抄』には逸勢は間佐名利(まさなり)と読むという〕
 『文徳実録』『日本後紀』等にいう。右中弁従四位下入居の子である。放胆な性格で
細部に拘らたい。しかし隷書に巧みで宮門の額(大内裏安嘉門北面の額)に手跡が見在
する(嵯峨天皇。空海とともに三筆の一人)。延暦の末に遣唐使に従って入唐した。唐
の文人は橘秀才と呼んだ。帰朝すると教官を歴任したが、年老い、病み疲れたため静居
して仕えなかった。承和九年(八四二)伴健峯〔とものこわみね 春宮の帯刀〕の謀反の
事に連座し、拷問されても服さなかった〔淳和天皇の子恒貞親王を立てようとして旧臣
らが潜かに謀反した(承和の変)〕。死罪を減じ伊豆国に配流された〔健峯は隠岐に流
され、恒貞は出家させられた〕。逸勢が配所に赴く時に、一人の娘が泣き悲しみながら
徒歩で従った。送監の官兵はこれを叱って去らせたが、娘は昼は止まり夜歩いてとうと
う従いてきた。逸勢は遠江国板筑(いたつき)(板築)駅に行き着いた所で客舎で生涯
を終えた。娘は身を捩じり叫んで哀泣した。そこで駅の傍らに葬った。娘は墓前に庵を
作り屍を守って去らず、落髪して尼となり、白ら妙中と号した。父のために誓いを立て、
夜もすがら苦行した。行路にそこを過ぎる者は、これに涙を流した。その後帰京し葬れ
との詔があり、妙中は屍を負って京に帰った。時の人はこれを異として孝女と称した
〔『唐書』には逸の字を免とする〕。
 
G吉備大臣:吉備聖霊
 吉備真備〔前右大臣、正二位勲二等〕
 『続日本紀』にいう。右衛士少将下道朝臣国勝(しもつみちあそんくにかつ)の子で
ある。霊亀二年(七一六)〔時に二十三歳〕、遣唐使に従って留学し学業を受ける。経
史(経書と史書)を調べ読み広く諸芸に通じた。我が朝の臣、学生で唐国に名が伝わる
のはこの吉備大臣と阿倍朝衡(仲麻呂)の唯二人だけである。天平五年(七三三)に帰
朝し(天平六年、種子島に漂着)、正六位下を授けられ、大学助を拝授した。高野天皇
(孝謙)は真備を師として『礼記』及び『漢書』を学んだ。恩寵甚だ厚く、吉備朝臣の
姓を賜わった。天平勝宝四年(七五二)、入唐副使となる。帰朝(天平勝宝五年)後正
四位下を授かり大宰大弐を拝し、筑前国怡土(いと)城を造る。天平宝字七年(七六三
)、造東大寺長官に遷る。同八年藤原仲満〔なかまろ、一名を恵美押勝えみおしかつ〕
が謀反した時、大臣は押勝が必ず通るであろうことを見計らって兵を分かって遮った。
分割して指揮した計略が中り、遂に賊は計略に陥ち、旬日にしてことごとく平定した。
その功で従三位勲二等を授かり参議中衛大将になる。天平神護二年(七六六)中納言に
任じ、程なく〔大納言に転じ〕右大臣を拝し従二位を授かった。これより先、大学の釈
奠(せきてん)の儀式(孔子をまつる儀式)が備わっていたかった。大臣は礼典(礼儀
に関する規則)を考えて器物を始めて整え、礼容は見るべきものになつた。また、大和
宿禰長岡と律令二十四条を刪定し、軽重の錯誤を弁別し、首尾の差違を矯正した〔桓武
天皇の延暦十年(七九一)、詔によって始めて用い行われた〕。宝亀元年(七七〇)上
啓して致仕したが、天子の詔があって許されず、ただ中衛大将を罷めた。同六年(七七
五)十月二日に薨じた。時に年八十三。(『本朝通紀』も同文)
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