『日本人の自然観』
 
 この地質地形の複雑さの素因をなした過去の地質時代における地殻(ちかく)の活動
は、現代においてもそのかすかな余響を伝えている。すなわち地震ならびに火山の現象
である。
 わずかに地震計に感じるくらいの地震ならば日本のどこかに一つ二つ起こらない日は
まれであり、顕著あるいはやや顕著と称する地震の一つ二つ起こらない月はない。破壊
的で壊家を生じ死傷者を出すようなのでも三四年も待てばきっと帝国領土のどこかに突
発するものと思って間違いはない。この現象はわが国建国以来おそらく現代とほぼ同様
な頻度(ひんど)をもって繰り返されて来たものであろう。日本書紀第十六巻に記録さ
れた、太子が鮪(しび)という男に与えた歌にも「ない」が現われており、またその二
十九巻には天武(てんむ)天皇のみ代における土佐国(とさのくに)大地震とそれに伴
なう土地陥没の記録がある。
 地震によって惹起(じゃっき)される津波もまたしばしば、おそらく人間の一代に一
つか二つぐらいずつは、大八州国(おおやしまのくに)のどこかの浦べを襲って少なか
らざる人畜家財を蕩尽(とうじん)したようである。
 動かぬもののたとえに引かれるわれわれの足もとの大地が時として大いに震え動く、
そういう体験を持ち伝えて来た国民と、そうでない国民とが自然というものに対する観
念においてかなりに大きな懸隔を示しても不思議はないわけであろう。このように恐ろ
しい地殻(ちかく)活動の現象はしかし過去において日本の複雑な景観の美を造り上げ
る原動力となった大規模の地変のかすかな余韻であることを考えると、われわれは現在
の大地のおりおりの動揺を特別な目で見直すこともできはしないかと思われる。
 同じことは火山の爆発についても言われるであろう。そうして火山の存在が国民の精
神生活に及ぼした影響も単に威圧的のものばかりではない。
 日本の山水美が火山に負うところが多いということは周知のことである。国立公園と
して推された風景のうちに火山に関係したもののはなはだ多いということもすでに多く
の人の指摘したところである。火山はしばしば女神に見立てられる。実際美しい曲線美
の変化を見せない火山はないようである。火山そのものの姿が美しいのみならず、それ
が常に山と山との間の盆地を求めて噴出するために四周の景観に複雑多様な特色を付与
する効果をもっているのである。のみならずまた火山の噴出は植物界を脅かす土壌(ど
じょう)の老朽に対して回春の効果をもたらすものとも考えられるのである。
 このようにわれらの郷土日本においては脚下の大地は一方においては深き慈愛をもっ
てわれわれを保育する「母なる土地」であると同時に、またしばしば刑罰の鞭(むち)
をふるってわれわれのとかく遊惰に流れやすい心を引き緊(し)める「厳父」としての
役割をも勤めるのである。厳父の厳と慈母の慈との配合よろしきを得た国がらにのみ人
間の最高文化が発達する見込みがあるであろう。
 地殻的構造の複雑なことはまた地殻の包蔵する鉱産物の多様と豊富を意味するが、同
時にまたある特殊な鉱産物に注目するときはその産出額の物足りなさを感じさせること
にもなるのである。石炭でも石油でも鉄でも出るには相応に出ても世界で著名なこれら
のものの産地の産額に匹敵するものはないであろう。日本が鎖国として自給自足に甘ん
じているうちはとにかく世界の強国として乗り出そうとする場合に、この事実が深刻な
影響を国是の上に及ぼして来るのである。それはとにかくこのようにいろいろのものが
少しずつ備わっているということがあらゆる点で日本の自然の特色をなしているとも言
われなくはない。
 地震の現象でも大小の地震が不断になしくずしに起こっている代わりにたとえば中部
アジアなどで起こるような非常に大規模な地震はむしろまれであるように思われる。こ
の事はやはり前記の鉱産に関する所説と本質的に連関をもっているのである。すなわち
、日本の地殻構造(ちかくこうぞう)が細かいモザイックから成っており、他の世界の
種々の部分を狭い面積内に圧縮したミニアチュアとでもいったような形態になっている
ためであろうと思われるのである。
 地形の複雑なための二次的影響としては、距離から見ればいくらも離れていない各地
方の間に微気候学的(ミクロクリマトロジカル)な差別の多様性が生じる。ちょっとし
た山つづきの裏表では日照雨量従ってあらゆる気候要素にかなり著しい相違のあるとい
うことはだれも知るとおりである。その影響の最も目に見えるのはそうした地域の植物
景観の相違である。たとえば信州(しんしゅう)へんでもある東西に走る渓流(けいり
ゅう)の南岸の斜面には北海道へんで見られるような闊葉樹林(かつようじゅりん)が
こんもり茂っているのに、対岸の日表の斜面には南国らしい針葉樹交じりの粗林が見ら
れることもある。
 単に微気候学的差別のみならず、また地質の多様な変化による植物景観の多様性も日
本の土地の相貌(そうぼう)を複雑にするのである。たとえば風化せる花崗岩(かこう
がん)ばかりの山と、浸蝕(しんしょく)のまだ若い古生層の山とでは山の形態のちが
う上にそれを飾る植物社会に著しい相違が目立つようである。火山のすそ野でも、土地
が灰砂でおおわれているか、熔岩(ようがん)を露出しているかによってまた噴出年代
の新旧によってもおのずからフロラの分化を見せているようである。
 近ごろ中井(なかい)博士の「東亜植物」を見ていろいろ興味を感じたことの中でも
特におもしろいと思ったことは、日本各地の植物界に、東亜の北から南へかけてのいろ
いろな国土の植物がさまざまに入り込み入り乱れている状況である、これも日本という
国の特殊な地理的位置によって説明され理解さるべき現象であろう。中にはまた簡単に
は説明されそうもない不思議な現象もある。たとえば信州(しんしゅう)の山地にある
若干の植物は満州(まんしゅう)朝鮮(ちょうせん)と共通であって、しかも本州の他
のいずれの地にも見られないといったような事実があるそうである。それからまた、日
本では夢にも見つかろうとは思われなかった珍奇な植物「ヤッコソウ」のようなものが
近ごろになって発見されたというような事実もある。これらの事実は植物に関すること
であるが、しかしまた、日本国民を組成しているいろいろな人種的民族的要素の出所と
その渡来の経路を考察せんとする人々にとってはこの植物界の事実が非常に意味の深い
暗示の光を投げかけるものと言わなければならない。
 天然の植物の多様性と相対して日本の農作物の多様性もまた少なくも自分の目で見た
西欧諸国などとは比較にならないような気がするのである。もっともこれは人間の培養
するものであるから、国民の常食が肉食と菜食のどちらに偏しているかということにも
より、また土地に対する人口密度にも支配されることであるが、しかしいずれにしても
、作ろうと思えば大概のものは日本のどこかに作り得られるという事実の根底には、や
はり気候風土の多様性という必須条件(ひっすじょうけん)が具備していなければなら
ない道理であろう。
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