『日本人の自然観』(全文) 寺田寅彦著
 
 緒言
 
「日本人の自然観」という私に与えられた課題の意味は一見はなはだ平明なようで、よ
く考えてみると実は存外あいまいなもののように思われる。筆を取る前にあらかじめ一
応の検討と分析とを必要とするもののようである。
 これは、日本人がその環境「日本の自然」をいかに見ていかに反応するか、というこ
と、またそれが日本人以外の外国人がそれぞれの外国の自然に対する見方とそれに対す
る反応しかたと比べていかなる特色をもつかということを主として意味するように思わ
れる。そうして第二次的には外国人が日本の自然に対する見方が日本人とどうちがうか
ということも問題になりうるわけである。
 もしも自然というものが地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)を呈しているものとし
たら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、従って上記のごとき問題の
内容吟味は不必要であるが、しかし実際には自然の相貌が至るところむしろ驚くべき多
様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見
せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉
ですらも実はあまりに漠然(ばくぜん)とし過ぎた言葉である。北海道や朝鮮(ちょう
せん)台湾(たいわん)は除外するとしても、たとえば南海道九州の自然と東北地方の
自然とを一つに見て論ずることは、問題の種類によっては決して妥当であろうとは思わ
れない。
 こう考えて来ると、今度はまた「日本人」という言葉の内容がかなり空疎な散漫なも
のに思われて来る。九州人と東北人と比べると各個人の個性を超越するとしてもその上
にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や東北人の
自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。しかし、ここでは
、それらの地方的特性を総括しまた要約した「一般的日本人」の「要約した日本」の自
然観を考察せよというのが私に与えられた問題であろうと思われる。そうだとすると問
題は決してそう容易でないことがわかるのである。
 われわれは通例便宜上自然と人間とを対立させ両方別々の存在のように考える。これ
が現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は実は合して一つの有
機体を構成しているのであって究極的には独立に切り離して考えることのできないもの
である。人類もあらゆる植物や動物と同様に長い長い歳月の間に自然のふところにはぐ
くまれてその環境に適応するように育て上げられて来たものであって、あらゆる環境の
特異性はその中に育って来たものにたとえわずかでもなんらか固有の印銘を残している
であろうと思われる。
 日本人の先祖がどこに生まれどこから渡って来たかは別問題として、有史以来二千有
余年この土地に土着してしまった日本人がたとえいかなる遺伝的記憶をもっているとし
ても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から
受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力しまた少なくも部分的にはそ
れに成効して来たものであることには疑いがないであろうと思われる。
 そういうわけであるから、もし日本人の自然観という問題を考えようとするならば、
まず第一に日本の自然がいかなるものであって、いかなる特徴をもっているかというこ
とを考えてみるのが順序であろうと思われる。
 もっとも過去二千年の間に日本の自然が急激に異常な変化をしたのだとすると問題は
複雑になるが、幸いにも地質時代の各期に起こったと考えられるような大きな地理的気
候的変化が日本の有史以後には決して起こらなかったと断言してもほとんど間違いはな
いと思われるから、われわれは安心して現在の日本の天然の環境がそのままにわれわれ
祖先の時代のそれを示していると仮定してもはなはだしい誤謬(ごびゅう)に陥る心配
はないであろうと思われる。
 それで以下にまず日本の自然の特異性についてきわめて概略な諸相を列記してみよう
と思う。そうしてその次に日本人がそういう環境に応じていかなる生活様式を選んで来
たかということを考えてみたら、それだけでも私に課せられた問題に対する私としての
答解の大部分はもう尽くされるのではないかと思われる。日本人を生んだ自然とその中
における生活とがあってしかる後に生まれ出た哲学宗教思想や文学芸術に関する詳細な
深奥な考察については、私などよりは別にその人に乏しくないであろうと思われる。
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