101 造り変える力と「神神の微笑」
 
 当Webの「ネット概要」に記しているように、「77悠久」の趣旨は「悠久ボードは、日
本古来の道、則ちその思想や理念を志向しています。斯道は日本及び日本人のみに限ら
ず、延いては悠久たる世界及び全ての人々に対しても、真に悉く適用され得るものです
」としている。
 
 自分はこれまでの人生において、わが国の「歴史」とは距離をおいて過ごしてきたよ
うに想う。「歴史」に対する知識が疎いと云うか、或いは歴史と自分の生い立ちとを比
べると、自分の生い立ちは異端児的であり、そのために歴史を理解することを殊更に回
避しようとしてきた結果かも知れない。
 今そのことを反省しつつ、「日本古来」に関することについて、理解を深めようとい
ろいろ努めているところである。
 その過程において、興味を惹かれた著書に『逆説の日本史』(伊沢元彦著小学館文庫
)がある。この著書『逆説の日本史2』の中で、「日本人の宗教感情の特殊性」につい
て、次のような趣旨の記述がある。
 
 即ち、
 「芥川龍之介の短編小説に『神神の微笑』と云う作品がある。戦国時代に日本にやっ
てきたイエズス会士オルガンティノ神父(実在の人物)と日本の神が問答すると云う趣
向の、勿論フィクションである。
 オルガンティノは次のように言う。
 
「南無大慈大悲の泥烏須如来(デウス=キリスト教の神のこと)! 私はリスポアを船
出した時から、一命はあなたに奉って居ります。ですから、どんな難儀に遇っても、十
字架の御威光を輝かせる為には、一歩も怯まずに進んで参りました。これは勿論私一人
の、能くする所ではございません。皆天地の御主、あなたの御恵でございます。が、こ
の日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、どの位難いかを知り始めました。
この国には山にも森にも、或は家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜んで居ります。
そうしてそれが冥々の中に、私の使命を妨げて居ります。さもなければ私はこの頃のよ
うに、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力とは
何であるか、それは私にはわかりません。が、兎に角その力は、丁度地下の泉のように、
この国全体へ行き渡って居ります。」
 
 そのように歎くオルガンティノの前に、この国の霊(神)が現れる。
 
「誰だ、お前は?」
 不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まった。
「私は、 − 誰でもかまいません。この国の霊の一人です。」
 老人は微笑を浮べながら、親切そうに返事をした。
「まあ、御一緒に歩きましょう。私はあなたと少時の間、御話しする為に出て来たので
す。」
 オルガンティノは十字を切った。が、老人はその印に、少しも恐怖を示さなかった。
「私は悪魔ではないのです。御覧なさい、この玉やこの剣を。地獄の炎に焼かれた物な
ら、こんなに清浄ではいない筈です。さあ、もう呪文なぞを唱えるのはおやめなさい。
」
 オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をした侭、老人と一しょに歩き出し
た。
「あなたは天主教(キリスト教)を弘めに来ていますね、 − 」
 老人は静かに話し出した。
「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須もこの国へ来ては、きっと最後
には負けてしまいますよ。」
「泥烏須は全能の御主だから、泥烏須に、 − 」
 オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、何時もこの国の信徒
に対する、叮嚀テイネイな口調を使い出した。
「泥烏須に勝つものはない筈です。」
「所が実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。」
 
 そう言って老人は、中国の孔子や孟子の教え、またインドのシャカの教えも結局この
国の中では変質してしまったと述べ、「泥烏須のようにこの国に来ても、勝ものはない
」と断言する。
 これに対して、オルガンティノは、きょうも侍が二、三人キリスト教に入信したと反
発する。老人はおだやかに言う。
 
「それは何人でも帰依するでしょう。唯帰依したと云う事だけならば、この国の土人(
現地の人)は大部分悉達多シタアルタの教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、
破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」
 
 造り変える力、それこそ日本人の心の奥底に今も生きている宗教感情である。
 老人最後に小声で言う。
 
「事によると泥烏須自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。
西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。
(中略)何処にでも、また何時でもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。…
……」
 
 この「造り変える力」が日本の霊たちのもつ力なら、その力によって守られるべき日
本の宗教上の永遠のテーマとは何か。
 それこそ怨霊信仰である。そして、怨霊を宥ナダめ鎮めること、その前提として怨霊と
云うものが実在し、この世の不幸のすべての原因であること。これが日本の宗教の根本
原理であり、仏教も儒教もキリスト教もこの根本原理の「守護神」に「造り変えら」れ
てしまうのだ。(中略)
 この「日本教」の原理は、『古代黎明編』でも指摘しておいたように、普通の日本人
には見えない。なぜなら空気のようにあたり前だからだ。しかし、「日本教」以外の特
定の宗教の信者になるか、その宗教を詳しく知るようになると、今まで「あたり前」だ
ったことが一転して、実に不思議に見えてくる。
 聖徳太子は仏教を深く信仰した。そこで初めて「和の原理」が見えてきた。
 芥川龍之介も同じだ。彼は晩年深くキリスト教に傾倒し、自殺した時の枕元に聖書が
置かれていたことは有名である。
 それ故に、「この国に潜んでいる不思議な力」に気付いたのだ。」(以下略)
と。
 
 即ち、彼はキリスト教に傾倒したが故に、わが国の宗教感情の素晴らしさに気付き、
結果として死を選ばなければならなかったのでしょう。
 芥川龍之介著『神神の微笑』を次項に掲載したのでご覧下さい。      SYSOP
 
『神神の微笑』 「宗教を読む」
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