31 平田篤胤
 
                       参考:堀書店発行「神道辞典」ほか
 
〈平田篤胤ヒラタアツタネ〉(安永五〜天保一四・1776〜1843)
 江戸時代の国学者、出羽国秋田久保田藩士大和田祚胤の子、幼名正吉である。幼少に
して中山青莪に儒学を学び、叔父柳元より医学を受けて玄琢と称した。
 二十歳の寛政七年(1795)出奔して江戸に入り苦労したが、同十二年備中国松山藩士
平田篤隠の養子となり、板倉家に仕えた。その頃より国学に開眼、享和三年(1803)本
居宣長没後の鈴屋に入門した(一説に享和元年)。その年、太宰純を批判して呵妄書を
書いたのが著述の始まりである。
 
 文化三年(1806)より弟子を採り、真菅乃屋と称した。同四年医師を開業、元瑞と改
名した。同六年より古道の講説に力を入れ、『古道大意』『玉たすき』等の講本が成っ
たが、その間に医師を止めた。同八年十二月、『古史成文』『古史徴』を著し、本居宣
長の祖述を脱して、独自の境地を開き、かつそれを強く自覚した。同九年『霊能真柱
タマノミハシラ』が成り、『古史伝』に着手した。『古史成文』を巡る古史一連の著作は、平田
学の体系の中心を成すものである。
 同十三年鹿島・香取方面を巡拝、天之石笛を得、家号を伊吹乃屋イブキノヤと改め、通称を
大角ダイカクとした。後には少年時代の称であった大壑ダイカクを復活した。
 
 文政三年(1820)辺りから外国の古伝の研究に打ち込み、『赤県太古伝』『大扶桑国
考』『印度蔵志』等を著したが、特に玄学に関心を持ち、天狗小僧等を通じて、神仙界
の具体的研究をも進めている。この間、同六年学業のため板倉家を辞し、著述献上のた
め上京、若山の本居大平、松阪の本居春庭に会い、宣長の墓に詣でた。
 天保元年(1830)頃より易・暦の研究に没頭、多数の著書を纏めた。天朝無窮暦の完成
後、再び我が古伝の研究に帰ろうとし、同十年には語学的研究である『古史本辞経』を
著したが、天朝無窮暦のことに因って、江戸から秋田へ追放、かつ著述差留めを幕府よ
り達せられ、同十二年帰郷、同十四年閏九月十一日病没した。年六十八歳。神祇伯白川
家より神霊能真柱大人の号を贈られた。
 
 篤胤自身、自分の学問を古道学・暦学・易学・軍学・玄学の五分野を含むものとしている。
その学問的方法の演繹的過ぎるのは欠点であるが、驚くべき博識と精力とによって、学
界に多くの課題を提供した。国学の尊王・敬神・復古の思想は、平田学によって社会の各
層に浸透し、明治維新の強力な基盤となった。幕末から明治にかけての神道家を始め、
現在の神道学者の多くも、篤胤の学問の大きな影響下に立っている。いわば国学の四大
人の一人に数えられ、門人は生前に約五百五十人、没後に約二千七百五十人を数えた。
養嗣子平田鉄胤は、篤胤の死後に平田家に入門した者を、全部「没後の入門」としたの
である。
 著作の主なものは、平田篤胤全集旧新両版に収録されている。
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