22a 哲学のすすめ[科学の限界は何か]
 
〈科学は価値判断を与えない〉
 
△科学は事実を記述する
 しかし、人間が人生観を持たないで生きて行くことは出来ません。この人生観さえも
科学によって与えられるべきであって、哲学の課題でないと断言出来るでしょうか。
 この問題を考えるためには、我々は、科学と云うものの本質を考えてみなければなり
ません。
 科学の本質は、自然現象の事実が如何にあるかを、あるがままに記述するところにあ
ります。事実がどんなものであれ、とにかくその事実をそのまま捉えることが、科学的
知識の目指すところなのです。
 
△「何故」の問いから「如何に」の問いへ
 一般に近世の自然科学は、「何故」と云う問いを止めて、「如何に」と問うのみであ
り、この問い方の転換が自然科学を成功させた、云われています。このことも前述の科
学の本質を示しています。
 近世以前の自然研究においては、常に如何なる事実が存するかと云うことを問題とす
るのではなく、寧ろ何故そう云う事実が存するのか、と云うことを問題としました。例
えば自然現象のうちに法則的な秩序が見出されると、更に一歩進んで、何故こう云う法
則的秩序があるのかと問い、それを神の力と結び付けようとしました。
 ところが、近世の自然科学は最早決してそう云う問いを発しません。それはただ如何
に事実があるかと云うことを探求するのであり、其処で立ち止まるのです。自然現象の
うちに法則が見出されれば、それでもう良いのです。それ以上、その法則が何故存在す
るのかと云うことを問いません。このように問題を単に事実のあり方に制限したところ
に、近世の自然研究が実証的な自然科学と成り得た所以が存するのです。
 このことは、我々が自然科学において見出された一、二の法則を考えれ見れば、十分
に納得されるでしょう。例えば、ケプラーの法則は、太陽を中心として回る遊星の運動
についての法則です。それはただ遊星が如何なる仕方で運動するか、と云う事実の記述
にほかなりません。そして我々は、最早この法則が何故存するのかと云うことを問題と
しないのです。或いは落体の法則にしても、それは真空中の落体が如何なる仕方で落下
するかと云う事実の記述です。何故こう云う落下運動をするかと云うことは最早問われ
ないのです。
 
△科学の答え得ぬもの
 科学がこのように事実を探求すること、即ちその問題を制限することによって、初め
て実証的な科学として成功し得たのです。
 しかしこれとともに、我々は科学的認識と云うものに、一つの大きな限界があること
を理解することが出来ます。それは即ち、何処までも事実が如何にあるかと云うことの
みを問題とする科学は、価値の問題については何等の解答をも与えないことです。事実
についての問題以外の問題に対しては、答えることが出来ないのです。
 
△「如何にあるか」と「如何にあるべきか」
 事実の問題は、「如何にあるか」と云うことで、価値の問題は、「如何にあるべきか
」と云うことです。
 我々はどんなに「如何にあるか」と云うことを探求しても、「如何にあるべきか」と
云う問いに答えることは出来ません。何故なら、「如何にあるべきか」と云う価値の問
題は、「如何にあるか」と云う事実の問題とは、全く無関係だからです。例えば、世界
中の人間が総て悪人ばかりで、善人は一人もいないと仮定してみましょう。しかし、そ
れだからと云って、「我々は善人になるべきだ」と云うことが成り立たないことになれ
ば、それは極めて不合理です。事実として、世界中の人間が善人であろうと悪人であろ
うと、それとは全く無関係に「善人であるべきだ」と云う価値判断は成立するのです。
 寧ろ我々は、あるべき状態が事実としては成立していないときにこそ、価値判断は意
味を持つのです。世界中の人々が事実として総て善人であるならば、「善人であるべき
だ」と云う価値判断は、大して意味を持ちません。何故なら、そのあるべき状態は既に
事実として実現しているからです。これに反して、世界中に善人が少ないとすれば、「
善人になるべきだ」と云う価値判断はもっと大きな意義を持つでしょう。何故なら、善
人でない我々は、善人になるべく努力すべきだ、と云うことが其処から導かれるからで
す。
 
△科学は人生観を与えない
 このように、科学が積極的に人生観を与えることが出来ないことが明らかになりまし
た。人生観は、決して単に事実に関係するものではありません。人生観は我々の生活の
根底に存して、行為を規定するものです。我々はよりよく生きようと欲する限り、人生
観の問題を考えねばならないのです。
 もとより我々は、科学的知識と矛盾するような人生観を持つことは許されません。例
えば、科学的根拠が少しも存在しないと完全に実証されますと、霊魂の不滅を信ずるこ
とは出来ません。この意味で、科学は確かに人生観に影響を与えます。しかし科学は決
して自ら人生観を与えることは出来ません。我々はいくら事実について多くの知識を持
っていたところで、其処から直ちに価値判断を引き出すことは出来ないからです。
 
△進化論の場合
 価値判断は知識から導くことが出来ないことは明らかです。しかしそれにも拘わらず、
このことが必ずしもよく理解されていなく、歴史的に見てもこの点で多くの誤りがなさ
れて来ました。
 例えば進化論の場合、生物が進化すると云う進化論の学説は、単なる事実に関する科
学的理論です。人間が類人猿から進化してきたと云うことは、生物学的に事実を述べた
ものです。しかし、もしも我々が、この事実から、人間は動物から進化したものだから、
動物的生活をしても差し支えない、或いはもっと積極的に、動物的に生活すべきだ、と
云う結論を引き出そうとしたらどうでしょうか。たとえ人間が類人猿から進化したとし
ても、このことと、人間が人間としてどう生きるべきか、と云うこととは無関係だから
です。
 もとより我々は進化論と矛盾するような人生観を抱くことは許されませんが、科学は
決してそれだけでは人生観を与えることは出来ないのです。
 
△哲学の役目
 科学が人間に人生観を与えないとすれば、哲学は科学とは異なったものとして存在し、
人間に人生観の価値の問題に関して解答する必要があります。我々は、如何に生きるべ
きかと云うことに関心を持たざるを得ない限り、哲学にも関心を持たなければならない
のです。
 現代は科学の時代です。そのためともすれば、科学を絶対的に信頼して、全ては科学
によって解決されると考えがちです。しかしこういう考え方は、決して「科学的」な考
え方ではありません。それはただ盲目的に科学を信ずる「非科学的」な考え方です。科
学を万能と考える「科学主義」は、およそ科学の本質とは矛盾するものなのです。科学
自身は寧ろ、単に事実を記述すると云う謹み深い態度によって成り立っているものなの
です。
 
△ブルーノーとガリレイ
 ドイツの哲学者ヤスパース(1883〜)は、その著『哲学的信仰』の中で、哲学と科学
との相違について明らかにしました。
 ルネサンス時代の哲学者ブルーノー(1548〜1600)と、近世自然科学の祖ガリレイ
(1564〜1642)は、外面的には極めてよく似た状況に立たされました。即ち、両者とも
コペルニクスの地動説を奉じたために、宗教裁判にかけられました。しかしこれに対す
る二人の態度は全く異なっていました。ブルーノーはあくまでもその説を撤回せず、遂
にローマで焚刑フンケイに処せられました。一方ガリレイはその説を撤回して許されました。
 この相違はどうして生じたのでしょうか。それは、ブルーノーの場合はコペルニクス
の地動説が彼の哲学と結び付いていたのに対して、ガリレイの場合にはそれが単なる科
学的理論に過ぎなかったからだと、ヤスパースは述べました。
 詳述出来ませんが、ブルーノーは自然の奥に神の力が存していると考えていました。
そしてこの神の力の偉大さは、天動説を採るより地動説を採る方がよく証明されると考
えました。それ故地動説を撤回することは、その哲学的信念を否定することだったので
す。神を信じ、其処に人生観を置いていてブルーノーにとって、これは決して許される
ことではありませんでした。ここに哲学と科学の相違がはっきりと示されているのです。
 ブルーノーのこのような考え方は、自然研究としては古いタイプの考え方であること
は前述のとおりです。それは単なる事実に立ち止まらず、更にその事実の奥に存するも
のを、即ち「如何に」ではなく、「何故」を問うている訳です。このような考えを捨て
ることによってこそ、自然科学は科学として成立したのであり、ガリレイが自然科学の
祖となったのです。自然科学が学問として成立した反面、そのことにより人生観との結
び付きを持たなくなったのです。
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