06 哲学・思想序曲[記号と記号学をめぐって]
 
                  参考:自由国民社発行「現代用語の基礎知識」
 
 アメリカの哲学者パースは、存在するものを総て記号であるとしました。その上で、
そうした存在の持つ意味を明らかにする記号学が成立することになります。
 
△記号 sign
 記号は普通、化学記号や数学の記号と云うように、事物や関係を簡潔に表すために用
いられるものです。しかし、"記号学(記号論)"ど云うときの記号は、それより遥かに
広い意味で使われていて、「意味を持っているもの」が記号です。衣服・食事・行動な
ど人間の生活に関わるものも、音楽・絵画・映画・写真などの芸術的表現も、更には都
市・国家などの制度も、総て記号として扱うことが出来ます。それらの記号の意味を考
えるのが記号学の仕事です。
 
△シニフィアン signifiant/シニフィエ signifie 仏(フランス語)
 シニフィアンsignifiant/シニフィエsignifieは、「記号表現・記号内容」「能記・
所記」「意味するもの・表現されるもの」などと訳されます。表現されたものとしての
シニフィアンがシニフィアンであり、この記号によって示されている内容がシニフィエ
です。例えば「人間」と云う文字若しくは「ニンゲン」と云う音声はシニフィアンであ
り、このシニフィアンによって示されている人間と云う存在がシニフィエです。シニフ
ィアン、シニフィエの関係は必然的に決められたものではなく不確定で多義的であると
されています。
 
△テクスト text
 テクストは通常、「原文」「原典」「教科書」などの意味に用いる言葉で、例えば、
「テクスト・クリティックtext critique」と言うときは、古典の原文の校訂作業のこと
です。しかし哲学思想の用語としてはもっと広い意味に用い、ディスクール、エクリチ
ュール(後述)などと同じく、何らかの表現されたものを意味します。この場合のテク
ストはテクスチュア(texture織物)と云う意味を残していて、既に存在している他のテ
クスト(これを「プレテクスト」と呼ぶことがある)を材料にして、織るようにして作
られたものを云う意味を持っています。その場合、テクストはプレテクストの引用と構
成によって構成されたものです。
 
△コンテクスト context
 コンテクストは「文脈」と訳されることもあります。通常の意味は、文章の前後関係
のことで、「この言葉は、この文脈ではこのような意味になる」と云うように用いられ
ます。しかし、記号論などの現代思想の用語としては、もっと広い意味で、一つのテク
スト(前述)が成立する場のことです。つまり一つのテクストは既に存在している他の
テクスト、つまりプレテクストを引用しそれらを構成して行くことによって成立するの
ですが、新たにテクストはコンテクストの中でのみ意味を持つことが出来ます。換言し
ますと、コンテクストはテクストが成立する場を設定します。
 
△ディスクール discours 仏(フランス語)
 ディスクールは「言語表現」「言説」と訳されます。言語によって記述され、何らか
のまとまった意味を持つ文のことを云います。元来は「講演」「叙述」を意味する言葉
であって、例えばデカルトの著作『ディスクール・ド・ラ・メトード』は「方法叙説」
と訳されています。"エクリチュールecriture"が単に文字で書かれたものだけでなく、
記号によって記されたあらゆるものを意味するのに対し、ディスクールは言語で表現さ
れたものに限定されます。
 
△表象 representation
 表象は西欧の伝統的な哲学の考え方の一つで、実在若しくは概念があって、それを言
語や記号が表象しているとします。従って表象には常にそれが表象しているものが対応
して存在します。ものがあり、それを表象する言葉が対応していると云うのが、表象と
云う考え方の基礎です。現代思想と現代芸術では表象と云う概念そのものが疑問にされ
つつあります。対応する実在を持たない表象であるシミュレーション(前述)と云う考
え方も示されています。表象は演劇の領域では上演の意味であり、哲学の領域での表象
概念の崩壊は実在を表象するものとしての伝統的な芸術の考え方、台本の上演と云う従
来の演劇のあり方にも打撃を与えました。
 
△多義性 ambiguity
 多義性とは、記号の持つ意味が不確定で曖昧であることを云います。特に現在の記号
論では、記号表現と記号内容が厳密に対応するとは考えられておらず、記号表現は必然
的に多義性を持ち、曖昧になります。記号にあるこの多義性こそが、記号の大きな特徴
であると云う見方が有力になりつつあります。多元論(前述)とも対応します。記号の
不安定な意味を言語によって確定することを「投錨(アンクラージュ)」と云うことが
あります。
 
△記号論 semiology
 記号論とは、人間の生活に関わりのある様々な事物や、芸術的な表現などを総て記号
として把握し、解明する理論です。言語学の理論を記号に適用することを基盤にしてい
ます。交通信号や化学記号など、狭い意味の記号は、人間相互のコミュニケーションに
用いられるものですが、その意味での記号を対象にする「コミュニケーションの記号論
」も重要ですが、今日では、もっと広い意味での記号を対象とする「意味作用の記号論
」が重視されています。例えば、「衣装の記号論」「広告の記号論」「都市の記号論」
などと云う用語が目につくのは、この意味での記号論です。記号論が必要とされるよう
になったのは、今までの個別的な学問である社会学・哲学などが、それぞれの領域に閉
じこもっているのに対して、現実の世界に溢れている記号を総合的に捉える理論が求め
られるからです。従って、記号論は様々な理論を総合する学際的な理論であり、その点
で極めて現代的な理論であると云えます。アメリカのパース、フランスのロラン・バル
ト、イタリアのウンベルト・エーコが今日の記号論の基礎を創ったとされています。
 
△パラダイム paradigm
 パラダイムは「範列」と訳されます。元来は文法の用語で語形変化表を意味しますが、
言語学では、例えば「雨が降る」と云う文の中で、雨の代わりに用いることが出来る雪
・雹ヒョウ・霰アラレなど一連の語が存在するとき、それらの語がパラダイムと呼ばれます。
また思想史で屡々言われる「パラダイムの転換」と云うときは、同時代に共通して用い
られている思考のパターンの転換のことです。これは、クーンが『科学革命の構造』の
中で提示している概念で、その場合のパラダイムは、科学者たちが、共通に理解してい
る一連の考え方、「知の枠組み」を意味します。この意味でのパラダイムが固定化して
しまうと科学それ自体が行き詰まるために、「パラダイムの転換」が求められることに
なります。
 なお、言語学の用語としてのパラダイムに対立するものは「シンタグマsyntagma」で
す。
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