03 国歌のこと
  
            参考:日本政策研究センター事業部発行「日の丸・君が代」
 
〈国歌「君が代」〉 君が代
 
  君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
 
 天皇陛下を中心としてわが国がいつまでも栄えますように −−− こう歌うわが国
の国歌「君が代」は、三十二文字で表された、世界で最も短い国歌です。と同時に、現
在世界各国で歌われている国歌の中でおそらく最も古い由来を持つ歌でもあります。
 今から一千年以上も前、「君が代」が歌われ始めました。その後、時代を超えて歌い
継がれ、百二十年前に新たな旋律メロディーが付けられ、わが国の国歌となりました。一千
年前の祖先が歌ったのと同じ歌詞を、現在に生きる私共が国歌として歌う − 歴史と
文化の国・わが国ならではの国歌と言うことができるでしょう。君が代はまさに、わが
国の国柄を見事に表現した、世界に誇るべき国歌なのです。
 
△国民の共感が生み出した国歌
 さて、世界のどの国でも、多くの人の集まる行事や重要な儀式の際には、必ず自分の
国の国歌を斉唱(又は演奏)します。また、外国の代表を迎えた場合、相手国の国旗を
掲げるとともに、国歌を演奏して敬意を表します。また世界中で、国旗のない国が一つ
として無いのと同じように、国歌の無い国もありません。
 つまり、国歌は国旗と同様に、その国そのものを代表する象徴シンボルなのです。国歌の
斉唱(又は演奏)にあたって、政治信条にかかわらず、起立して敬意を表すのが、国際
的な慣例となっているのはこのためです。
 しかし、決して国歌は単に儀式のための歌というだけではありません。国旗同様に国
歌も、その国の歴史、建国や政治の在り方、文化の中で生まれたその国の人々の「心の
歌」でもあるのです。つまり、国民的な感情、共感を歌い表した楽曲なのであって、そ
うであるからこそ、その国の象徴シンボルとされ、大切にされているのです。
 
 因みに、イギリスやスウェーデン、デンマークなどの国歌は、国王を讃えます。アメ
リカやフランスは、戦争から生まれた"戦闘的"国歌です。スイスや大韓民国の国歌は、
自然や神を歌っております。
 
△国歌「君が代」の誕生
 君が代が国歌となったのは明治の初めのことで、国旗「日の丸」と同様、君が代もわ
が国が国際社会の一員となるの際して、国歌として登場したのです。
 明治二年、鹿児島(薩摩)藩の軍楽隊がイギリス公使館の軍楽長フェントンから、「
外国には国歌というものがあるが、日本には公式儀式用の国歌はあるか」と聞かれたこ
とが、君が代が国歌となる発端であると言われています。これを契機として、薩摩藩の
砲兵隊長大山巌らが、新たに歌詞を作るのではなく、古い和歌の中から「君が代」を選
び、フェントンに作曲してもらい、最初の「君が代」が翌明治三年に演奏されました。
 このフェントン作曲の君が代は、その後暫くの間、海軍や宮中の儀式などで用いられ
ましたが、日本語を知らないフェントンが西洋音楽そのままの曲を付けため、歌詞と旋
律メロディーが合わず、日本人にとっては非常に歌いづらいものでした。
 そこで明治九年頃、海軍から楽譜の改訂が提案され、明治十三年(1880)になって、
宮内省の楽人林広守が和琴の調律法として伝えられた壱越調律旋イチコツチョウリツセンという、わ
が国固有の雅楽の旋律によって作曲した曲が選定されました(実際には、林広守の長男
広季と奥好義の合作といわれている)。これに、ドイツ人音楽教師エッケルトが調和ハーモ
ニーや伴奏を付けた − これが現在の君が代です。そしてこの年の十一月三日、天長節
(明治天皇の御誕生日)には、初めて公式に国歌として演奏されました。更に、その八
年後の明治二十一年、この君が代の楽譜が、国歌として国内の諸官庁や外交関係のあっ
た諸外国に対して正式に通知されました。
 
 今日までは君が代は、慣習法的に国歌であったので、法律で明文化されていませんで
した。それを追認して、明文で法的根拠を明らかにしたのが、今回の国歌「君が代」な
のです。
 なお、国歌「君が代」は明治十三年に誕生したとの説もあります。
 
△古歌「君が代」
 君が代の作詞者は不明で、「古歌」とされています。
 君が代の歌詞の歴史は古く、今から一千年以上も遡ります。平安時代の前期、醍醐ダイ
ゴ天皇の時代に、勅撰チョクセン歌集として編纂された『古今和歌集』(延喜エンギ五年・907)
の巻七「賀歌ガノウタ」の部の巻頭を飾る歌が原典であるといわれています。なお賀歌と
は、一般に相手の長寿健在を祝う歌という意味です。
 
  わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
 
 この歌が、平安時代末期に当時広く歌われていた有名な和歌・漢詩を集めた『和漢朗
詠集』には、
 
  君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
 
となっており、おそらく人々によって歌われているうちに「わが君」から「君が代」へ
と自然に変化したと考えられます。
 作者は『古今和歌集』の当時からすでに"詠み人しらず"です。このことは単に作者が
判らないというのではなく、『古今和歌集』が編纂された当時、すでに広く歌われ、あ
る個人の作というよりも、多くの人々の中で育ってきた歌とも考えられています。
 このように、千年以上も前に生まれて歌が、歌い方こそ違いますが、そのまま歌われ
ているのは世界に例のないことです。
 
△歌い継がれて一千年
 しかし、この「君が代」は単に古い和歌として、和歌を詠む人の間だけで伝わってき
たものではありません。一千年近くの間、日本人の間で様々な形で広く歌い継がれてき
ました。
 その後鎌倉時代以降になって、神事や宴席の最後に歌われる祝歌として一般に広まり
ました。
 江戸時代になると更に広がり、物語、お伽草子などの文芸や、浄瑠璃、謡曲などの芸
能にも登場するようになりました。更に舟歌、盆踊り歌や村の祭礼の歌にまで採り入れ
られるようになりました。つまり江戸時代には、朝廷から武士、農民、町民を問わず、
また江戸、京都などの都市から、南海の離島に至るまで歌われていたということです。
 このように君が代ほどわが国の歌謡として、日本人の心に広く行き渡ったものはなく、
国際社会に登場するに当たって、わが国の国歌として君が代が選ばれたのは、実に自然
なことであったのです。
 
 因みに君が代の「君」とは、天皇のことであり、「君が代」は天皇の御代を讃える歌
であると同時に、民衆の祝賀用の愛唱歌でした。つまり、民衆の歌として歌われるなか
でも、「君が代」としての本来の意味は維持され、この二つの意味が共存する形として
歌い継がれてきました。
 ここに天皇と国民とが対立関係にあるのではなく、一体的があったという、わが国の
独自の国柄を見ることができます。まさに、君が代は、わが国の国柄を表した国歌なの
です。
 
〈「さざれ石」とは〉
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