02 国旗のこと
  
            参考:日本政策研究センター事業部発行「日の丸・君が代」
 
〈国旗「日の丸」〉
 
△国旗は主権・独立の象徴シンボル
 国旗とは、その国を象徴する旗です。その意味で、国旗はある国を他の国と識別する
「標識」としての役割を持っているのですが、しかし、単なる「国の標識」ではありま
せん。国旗には深い意味がこめられているのです。
 先ず、国旗はその国の独立や主権を表しています。現在、国連に加盟している国は一
八五カ国ですが、すべての国に国旗があります。どんな小さな国でも、またつい最近独
立した国でも、国旗のない国は一つとしてありません。主権のない国が存在しないのと
同様に、国旗のない国は存在しないのです。
 例えば、わが国に駐在する外国大使館は必ず自国の国旗を掲げ、その国を代表する外
交使節であることを表しています。また、国を代表して国際的な会議や運動競技スポーツ大
会などに参加する場合、必ず自国の国旗を掲げて参加の証アカシとしています。
 各国の主権を表すものであるからこそ、国際法の上でも国旗は重要な意味を持ってい
ます。例えば、外国で行動する船舶は必ず自国の国旗を掲げることが、国際法によって
義務付けられています。船舶は国旗を掲げることによって、「浮かぶ領土」として公海
を安全に航行できるのです。
 
△日の丸はこうして生まれた
 わが国の国旗「日の丸」はどのような意味を持ち、どのようにして生まれたのでしょ
うか。日の丸がわが国を代表する旗となったのは、今から約百四十年前の幕末のことで
す。わが国が近代の国際社会に参加したとき、わが国を代表する旗として登場したのが
「日の丸」でした。
 江戸時代の終わり頃、外国船が国交を求めて頻繁に来航するようになりました。中で
も有名なのがペリー艦隊の来航(嘉永カエイ六年・1853)です。その年の暮、薩摩藩主島津
斉彬ナリアキラが、外国船に対する防備を強めるため、それまで禁止されていた大船や蒸気船
の建造計画を提出しました。その中で、島津斉彬は外国船とわが国の舟とを識別するた
め、わが国の船には「船印フナジルシ」として「白帆に朱シュの丸」の小旗を掲げることを提
案しました。議論の末、翌年(安政アンセイ元年・1854)、幕府はこの提案を受け入れて、「
異国船に紛マギれざるよう日本総船印ソウフナジルシは白地に日の丸幟ノボリ」と定めました。
 更にその五年後の安政六年(1869)一月、幕府は大鑑に「御国総標ミクニソウジルシ」として
「白地日の丸の旗」を掲げるよう決定しました。日の丸は、「幟」から「旗」へ、そし
て「総船印」から「御国総標」へと変わりました。当時、幕府がわが国を代表する政府
であり、なおかつ対外的に国籍の標示を必要としたのは大船や蒸気船だけでしたから、
この決定をもって日の丸がわが国を代表する旗、事実上の国旗となったと言ってよいで
しょう。
 
△幕末に太平洋を渡った日の丸
 その翌年、日の丸は太平洋を渡り、日本の国旗として国際的な承認を受けました。即
ち万延マンエン元年(1860)「遣米ケンベイ使節団」が日米修交通商条約批准書交換のため米国
に渡り、そのとき日本船として初めて太平洋を渡った咸臨丸カンリンマルは日の丸を掲げまし
た。
 また、使節団は米国で日本の国旗として日の丸を掲げ、米国民は日の丸と星条旗を掲
げて使節団を歓迎し、批准書交換に当たっては友好親善の証として国旗の交換も行われ
ました。最初に国旗「日の丸」が国際的に承認されたのはこの時、つまり明治維新の八
年前のことでした。
 幕末に決定された国旗「日の丸」は、明治維新後も引き継がれました。明治三年明治
新政府は、わが国の外国航路の貿易船は必ず国旗を掲げること、国旗は日の丸であるこ
と、更にはその意匠デザインや寸法を布告しました。こうして、日本国内は勿論、海外で
も日の丸が日本の国旗として翻ることとなりました。国旗「日の丸」は、近代日本誕生
の象徴でもあったのです。
 
△国号と同じ根元ルーツを持つ国旗
 わが国が幕末の国際社会に登場するに当たって、わが国を代表する旗として日の丸を
選んだことは大変重要な決定でした。では、何故日の丸であったのでしょうか。
 ここで注目しなければならないのは、当時新たな意匠(図案)が考えられた訳ではな
く、そのとき既にわが国を代表するものとすけば、それは日の丸しかないと考えられて
いたことです。
 日の丸は日章旗とも呼ばれるように、太陽を図案化したものです。この日の丸の根元
ルーツは、記録に残っている限りでは、今から約千三百年前の大宝タイホウ元年(701)、文武
モンム天皇の時代、朝廷の正月元旦の行事で用いられた「日像ニチゾウ(太陽を金色に描いた
もの)」にあるとされています。尤も、日本人の祖先は天照大御神をお祀りし、それ以
前にも自らの国を「日出イづる処」と称していた訳ですから、「日の丸」は古代から日本
人の心の中にあった、と言ってよいでしょう。
 また、八世紀には、「日本」という国の名前(国号)が使われるようになりました。
これも、わが国が「日出づる処」「日ヒの本モト」にあることを念頭におき、当時のアジア
の大国であった中国大陸の唐と対等の立場に立つことを認識して名付けられました。こ
のように、「日本」という国の名前と、国旗「日の丸」の根元ルーツとは同じ発想であった
のです。
 
 因みに、アメリカの国旗は独立したこを、イギリスの国旗は連合王国の成り立ちを表
しています。ヨーロッパに多く見られる十字の印はキリスト教、中東やアフリカの国に
多く見られる三日月はイスラム教の象徴です。またフランスの国旗はフランス革命のな
かで生まれました。
 
△日の丸に彩られたわが国の歴史
 このように太陽を図案化した日の丸は、日本人にとって極めて"自然な印"でしたので、
日の丸は古くからわが国の歴史に登場しました。
 例えば『平家物語』には、屋島の合戦で、源氏方の弓の名手那須与一が平家の女房の
差し出した「紅クレナイに日ヒいだしたる扇」の要を射る場面が描かれています。
 その後、およそ六百年前の南北朝時代になると、今日の日の丸と同じ「白地の日の丸
」が登場しました。後醍醐ゴダイゴ天皇が吉野の笠置山に行幸されたときの日の丸で、『
太平記』にその様子が描かれています。
 戦国時代になると上杉謙信、武田信玄、伊達政宗などの武将が、日の丸を合戦の際に
掲げる旗指物として多く用いられるようになりました。
 更に、豊臣秀吉の時代から徳川時代の初め、東南アジアと貿易した朱印船にも掲げら
れるようになりました。この頃になると、日の丸は事実上のわが国の船籍を示す旗とな
っていました。部分的ですが、国旗としての役割を果たすようにもなっていた訳です。
 
△日の丸こそわが国の国旗に相応しい
 つまり、日の丸は、わが国の歴史を通して日本人に長く親しまれていた旗であったと
言っていいでしょう。その意味で、幕末・明治の初めに国旗を日の丸としたのは、太陽
に対する日本人の特別な想い、そして日の丸の長い歴史を踏まえた決定であったと言え
ます。実際、幕末に国旗「日の丸」の基になる「日本総船印」が決定される際、こんな
議論がなされています。幕府の高官は、日の丸を幕府自身の船印とし、「日本総船印」
には中黒(白地に黒の横一文字で、元々は源氏の旗)という旗を推薦したのに対して、
当時の水戸藩主徳川斉昭ナリアキラが、"昔から日本人が親しんできた日の丸こそわが国を代
表するに相応しい。それを徳川幕府が私用するのは本末転倒である"と反論し、「日の丸
」採用を主張しました。
 まさに、日の丸は日本人とわが国の歴史と切っても切り放せない、わが国に相応しい
国旗なのです。
[次へ進む] [バック]