96 歴代天皇
96 後醍醐ゴダイゴ天皇(その四)
かゝりしあひだに、陸奥守鎮守府の将軍顕家卿この乱ミダレをきゝて、親王をさきに立
奉りて、陸奥・出羽の軍兵を率ソツしてせめのぼる。同オナジキ十三日近江国につきてことの
由を奏聞す。十四日に江をわたりて坂本にまいりしかば、官軍大にちからをえて、山門
の衆徒までも万歳をよばひき。同十六日より合戦はじまりて三十日つゐに朝敵を追落
オヒオトす。やがて其夜還幸し給。高氏等猶摂津国にありと聞えしがば、かさねて諸将をつ
かはす。二月十三日又これをたいらげつ。朝敵は船にのりて西国へなむおちにける。諸
将をよび官軍はかつがつかへりまいりしを、東国の事おぼつかなしとて、親王も又かへ
らせ給べし、顕家卿も任所ニンジョにかへるべきよしおほせらる。義貞は筑紫へつかはさ
る。かくて親王元服し給。直スグに三品サンポンに叙し、陸奥ノ太守に任じまします。彼国の
太守は始たることなれど、たよりありとてぞ任じ給。勧賞ケンシャウによりて同母の御兄四品
成良ナリヨシのみこをこえ給。顕家卿はわざと賞をば申うけざりけるとぞ。
義貞朝臣は筑紫へくだりしが、播磨国に朝敵の党類ありとて、まづこれを退治すべし
とて、日ををくりし程に五月にもなりぬ。高氏等西国の凶徒をあひかたらひてかさねて
せめのぼる。官軍利なくして都に帰参せしほどに、同二十七日に又山門に臨幸し給。八
月にいたるまで度々合戦ありしかど、官軍いとすゝまず。仍て都には元弘偽主ギシュの御
弟、三の御子豊仁ユタヒトと申けるを位につけ奉る。十月十日の比にや、主上シュシャウ都に出さ
せ給。いとあさましかりしことなれど、又行すゑをおぼしめす道ありしにこそ。東宮は
北国に行啓あり。左衛門督実世サネヨの卿以下イゲの人々、左中将義貞朝臣をはじめてさる
べき兵もあまたつかうまつりけり。主上は尊号の儀にてましましき。御心をやすめ奉ら
んためにや、成良親王を東宮にすへたてまつる。同十二月にしのびて都を出ましまして、
河内国に正成といひしが一族等をめしぐして芳野にいらせ給ぬ。行宮カリミヤをつくりてわ
たらせ給、もとのごとく在位の儀にてぞましましける。内待所ナイシドコロもうつらせ給、神
璽も御身にしたがへ給けり。まことに奇特キドクのことにこそ侍しが、芳野のみゆきにさ
きだちて、義兵をおこす輩もはべりき。臨幸の後には国々に御心ざしあるたぐひあまた
聞えしかど、つぎの年もくれぬ。
又の年戊寅の春二月、鎮守大将軍顕家卿又親王をさきだて申、かさねてうちのぼる。
海道の国々ことごとくたいらぎぬ。伊勢・伊賀をへて大和に入、奈良の京になむつきにけ
る。それより所々の合戦あまたたびに勝負侍りしに、同五月和泉国にてのたゝかひに、
時いたらざりけむ、忠孝の道こゝにきはまりはべりにき。苔の下にうづもれぬ、たゞい
たづらに名をのぞみとゞめてし、心うき世にもはべるかな。官軍猶こゝろをはげまして、
男山に陣をとりて、しばらく合戦ありしかど、朝敵忍て社壇をやきはらひしより、こと
ならずして引しりぞく。北国にありし義貞もたびたびめされしかど、のぼりあへず。さ
せることなくてむなしくさへなりぬときこえしかば、云ばかりなし。
さてしもやむべきならずとて、陸奥の御子又東アヅマへむかはせ給べき定あり。左少将
顕信アキノブノ朝臣中将に転じ、従三位に叙し、陸奥の介鎮守将軍を兼てつかはさる。東国
の官軍ことごとく彼節度にしたがふべき由を仰らる。親王は儲君チョクンにたゝせ給べきむ
ね申きかせ給、「道の程もかたじけなかるべし。国にてはあらはさせ給へ。」となむ申
されし。異母の御兄もあまたましましき。同母の御兄も前サキノ東宮、恒良ツネヨシの親王・成
良ナリヨシノ親王ましまししに、かくさだまり給ぬるも天命なればかたじけなし。七月のすゑ
つかた、伊勢にこえさせ給て、神宮にことのよしを啓マヲシて御船をよそひし、九月のはじ
め、ともづなをとかれしに、十日ごろのことにや、上総カヅサの地ちかくより空のけしき
おどろおどろしく、海上あらくなりしかば、又伊豆の崎と云方にたゞよはれ侍しに、い
とゞ浪風をびたゝしくなりて、あまたの船ゆきがたしらずはべりけるに、御子の御船は
さはりなく伊勢の海につかせ給。顕信朝臣はもとより御船にさぶらひけり。同風のまぎ
れに、東をさして常陸国なる内の海につきたる船はべりき。方々にたゞよひし中に、こ
の二のふねおなじ風にて東西にふきわけける、末の世にはめづらかなるためしにぞ侍べ
き。儲マウケの君にさだまらせ給て、例なきひなの御すまひもいかゞとおぼえしに、皇太神
スミオホミカミのとゞめ申させ給けるなるべし。後に芳野へいらせましまして、御めの前にて天
位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたうとく侍るかな。又常陸国はもとよ
り心ざす方なれば、御志ある輩あひはからひて義兵こはくなりぬ。奥州・野州の守も次の
年の春かさねて下向して、をのをの国につきはべりにき。
さても旧都には、戊寅の年に冬改元して暦応リャクオウとぞ云ける。芳野の宮にはもとの延
元の号なれば、国々もおもひおもひの号なり。もろこしには、かゝるためしおほけれど、
此国には例なし。されど四とせにもなりぬるや。大日本ヤマト島根シマネはもとよりの皇都
クワウト也。内侍所・神璽も芳野におはしませば、いづくか都にあらざるべき。
さても八月の十日あまり六日にや、秋霧にをかされさせ給てかくれましましぬとぞき
こえし。ぬるが中なる夢の世は、いまにはじめぬならひとはしりながら、かずかずめの
まへなる心ちして老オイノ泪もかきあへねば、筆の跡さへとゞこほりぬ。昔、仲尼チュウヂは
「獲麟クワクリンに筆をたつ。」とあれば、こゝにてとゞまりたくはべれど、神皇正統のよこ
しまなるまじき理を申のべて、素意ソイの末をもあらはさまほしくて、しゐてしるしつけ
侍るなり。かねて時をもさとられしめ給けるにや、まへの夜より親王をば左大臣の亭へ
うつし奉られて、三種の神器を伝申さる。後の号をば、仰のまゝにて後醍醐天皇と申。
天下を治給こと二十一年。五十二歳おましましき。
昔仲哀天皇熊襲クマソをせめさせ給し行宮にて神さりましましき。されど神功皇后程なく
三韓をたひらげ、諸皇子の乱をしづめられて、胎中タイチュウ天皇の御代にさだまりき。この
君聖運ましまししかば、百七十余年中絶ナカタエにし一統の天下をしらせ給て、御目の前に
て日嗣をさだめさせ給ぬ。功もなく徳もなきぬす人世におごり、四とせ余がほど宸襟
シンキンをなやまし、御世をすぐさせ給ぬれば、御怨念の末むなしく侍りなんや。今の御門
また天照太神よりこのかたの正統をうけましましぬれば、この御光にあらそひたてまつ
る者やはあるべき。中々かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。
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