96 歴代天皇
 
 96 後醍醐ゴダイゴ天皇(その二)
 
 同オナジキ年冬十月、先あづまのおくをしづめらるべしとて、参議右近中将源顕家アキイヘノ
卿を陸奥守ミチノクノカミになしてつかはさる。代々和漢の稽古をわざとして、朝端テウタンにつか
へ政務にまじはるる道をのみこそまなびはべれ。吏途リトの方にもならはず、武勇の芸に
もたづさはらぬことなれば、たびたびいなみ申しかど、「公家すでに一統しぬ。文武の
道二あるべからず。昔は皇子・皇孫もしは執政の大臣の子孫のみこそおほくは軍の大将に
もさゝれしか。今より武をかねて蕃屏ハンペイたるべし。」とおほせ給て、御みづから旗の
銘をかゝし給、さまざまの兵器をさへくだしたまはる。任国におもむくこともたえてひ
さしくなりにしかば、ふるき例をたづねて、罷申マカリマヲシの儀あり。御前にめし勅語あり
て御衣オンゾ御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申うけて、御子を一所ヒトトコロと
もなひたてまつる。かけまくもかしこき今上キンジョウ皇帝の御ことなればこまやかにはし
るさず。彼国につきければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみななびきしたがひに
なり。同十二月左馬頭サマノカミ直義タダヨシ朝臣相模守を兼て下向す。これも四品シホン上野
カミツケノ太守タイシュ成良ナリヨシノ親王をともなひ奉。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさ
せ給(直義は高氏が弟なり)。
 
 抑彼高氏御方にまいりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ありて、抽賞チウシャウせ
られしかば、ひとへに頼朝卿天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつ
しか越階ヲッカイして四位に叙し、左兵衛督サヒャウエノカミに任ず。拝賀のさきに、やがて従三位
して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三ケ国の吏務・守護をよびあまたの郡庄グンシャウを
給る。弟直義左馬頭に任じ、従四位に叙す。昔頼朝ためしなき勲功ありしかど、高官・高
位にのぼることは乱政なり。はたして子孫もはやくたえぬるは高官のいたす所かとぞ申
伝たる。高氏等は頼朝・実朝が時に親族などとて優恕イウジョすることもなし。たゞ家人ケニン
の列なりき。実朝公八幡宮を拝賀せし日も、地下前駈ヂゲゼンク二十人の中に相加れり。
たとひ頼朝が後胤なりとも今さら登用すべしともおぼえず。いはむや、ひさしき家人な
り。さしたる大功もなくてかくやは抽賞せらるべきとあやしみ申輩もありけりとぞ。関
東の高時天命すでに極て、君の御運をひらきしことは、更に人力ジンリョクといひがたし。
武士たる輩、いへば数代スダイの朝敵也。御方にまいりて其家をうしなはぬこそあまさへ
ある皇恩なれ。さらに忠をいたし、労をつみてぞ理運リウンの望をも企クハタテはべるべき。し
かるを、天の功をぬすみてをのれが功とおもへり。介子推カイシスイがいましめも習ナラヒしる
ものなきにこそ。かくて高氏が一族ならぬ輩もあまた昇進し、昇殿をゆるさるゝもあり
き。されば或人の申されしは、「公家の御世にかへりぬるかとおもひしに中々猶武士の
世になりぬる。」とぞあり。
 
 をよそ政道と云ことは所々にしるしはべれど、正直慈悲を本として決断の功あるべき
なり。これ天照太神のあきらかなる御をしへなり。決断と云にとりてあまたの道あり。
一には其人をえらびて官に任ず。官に其人ある時は君に垂拱スイキョウしてまします。されば
本朝にも異朝にもこれを治世の本モトとす。二には国郡をわたくしにせず、わかつ所かな
らず其理のまゝにす。三には功あるをば必カナラズ賞し、罪あるをば必ず罰す。これ善をす
ゝめ悪をころす道なり。是に一もたがふを乱政とはいへり。
 
 上古シャウコには勲功あればとて官位をすゝむことはなかりき。つねの官位のほかに勲位
と云しををきて一等より十二等まで有。無位の人なれど、勲功たかくて一等にあがれば、
正三位の下シモ、従三位の上カミにつらなるべしとぞ見えたる。又本位ある人のこれを兼た
るも有べし。官位といへるは、上三公より下諸司の一分イチブにいたる、これを内官ナイクワン
と云、諸国の守カミより史生シジャウ・郡司グンジにいたる、これを外官ゲクワンと云。天文にか
たどり、地理にのッとりてをのをのつかさどる方あれば、其才なくては任用せらるべから
ざることなり。「名与器ナトウツハモノトは人にかさず。」とも云、「天の工ツカサ、人其代
ソレカハル。」ともいひて、君のみだりにさづくるを謬挙ビウキョとし、臣のみだりにうくるを
尸禄シロクとす。謬挙と尸禄とは国家のやぶるゝ階ハシ、王業の久からざる基モトイなりとぞ。
 
 中古と成て、平将門を追討の賞にて、藤原秀郷ヒデサト正四位下ゲに叙し、武蔵・下野両
国の守を兼す。平貞盛サダモリ正五位下に叙し、鎮守府の将軍に任ず。安倍アベノ貞任サダタフ
奥州アウシウをみだりしを、源頼義ヨリヨシノ朝臣十二年までにたゝかひ、凱旋の日、正四位に叙
し、伊予守に任ず。彼等其功たかしといへども、一任四五ケ年の職なり。これ猶上古の
法にはかはれり。保元の賞には、義朝左馬頭に転じ、清盛太宰ダザイノ大弐ダイニに任ず。
此外受領ズリャウ・検非違使ケンビイシになれるもあり。此時やすでにみだりがはしき始となり
にけむ。平治よりこのかた皇威ことのほかにおとろへぬ。清盛天下の権を盗、太政大臣
にあがり、子ども大臣対象に成しうへはいふにたらぬ事にや。されど朝敵になりてやが
て滅亡せしかば後の例にはひきがたし。頼朝はさらに一身の力にて平氏の乱をたいらげ、
二十余年の御いきどをりをやすめたてまつりし、昔神武の御時、宇麻志麻見ウマシマミの命
ミコトの中州ナカツクニをしづめ、皇極の御宇ギョウに大織冠の蘇我の一門をほろぼして、皇家
クワウカをまたくせしより後は、たぐひなき程の勲功にや。それすら京上キャウノボリの時、大納
言大将に任ぜらりしをば、かたくいなみ申けるををしてなされにけり。公私のわざはい
にや侍けむ。その子は彼があとなれば大臣大将になりてやがてほろびぬ。さらにあとと
いふ物もなし。天意にはたがひけりと見えたり。君もかゝるためしをはじめ給しにより
て、大功なきものまでも皆かゝるべきことを思あへり。頼朝はわが身かゝればとて、兄
弟一族をばかたくをさへけるにや。義経ヨシツネ五位の検非違使にてやみぬ。範頼ノリヨリが三
河守なりしは、頼朝杯がの日地下ヂゲの前駈にめしくはへたり。おごる心みえければに
や、この両弟をもつゐにうしなひにき。さならぬ親族もおほくほろぼされしは、おごり
のはしをふせぎて、世をもひさしく、家をもしづめむとにやありけむ。先祖経基ツネモトは
ちかき皇孫なりしかど、承平の乱に征東将軍忠文タダフンノ朝臣が副将として彼が節度をう
く。それより武勇ブヨウの家となる。其子満仲マンヂュウより頼信ヨリノブ、頼義ヨリヨシ、義家ヨシイヘ
相続アヒツイで朝家テウカのかためとしてひさしく召仕メシツカハる。上カミにも朝威ましまし、下シモ
にも其分にすぎずして、家を全マタクし侍りけるにこそ。為義にいたりて乱にくみして誅に
ふし、義朝又功をたてんとてほろびにき。先祖の本意にそむきけることはうたがひなし。
されば良く先蹤センショウをわきまへ、得失をかむがへて、身を立、家をまたくするこそかし
こき道なれ。おろかなるたぐひは清盛・頼朝が昇進をみて、みなあるべきこととおもひ、
為義・義朝が逆心をよみして、亡たるゆへをしらず。近ごろ伏見の御時、源為頼タメヨリと云
をのこ内裏にまいりて自害したりしが、かねて諸社に奉る矢にも、その夜射ける矢にも、
太政大臣為頼とかきたりし、いとおかしきことに申めれど、人の心のみだりになり行す
がたはこれにてをしはかるべし。義時などはいかほどもあがるべくやありけむ。されど
正四位下右京ウキャウノ権ゴンノ大夫ダイブにてやみぬ。まして泰時が世になりては子孫の末を
かけてよくをきてをきければにや、滅びしまでもつゐに高官にのぼらず、上下の礼節を
みだらず。近く維貞コレサダといひしもの吹挙スイキョによりて修理シュリノ大夫ダイブになりしを
だにいかがと申ける。まことに其身もやがてうせ侍りにき。父祖のをきてにたがふは家
門をうしなふしるしなり。
[次へ進んで下さい]