81 歴代天皇
 
 82 後鳥羽ゴドバ天皇
 
 鎌倉前期の天皇。高倉天皇の第四皇子。名は尊成タカヒラ。1198年(建久9)譲位して院
政。1221年(承久3)北条義時追討の院宣を下したが失敗して隠岐に配流(承久の乱)さ
れ、隠岐院と称される。その地で没し、顕徳院と追号。その後、種々の怪異が生じ、怨
霊のたたりとされ、改めて後鳥羽院と追号された。歌道に秀で、新古今和歌集を勅撰、
配流の後も業を続けて隠岐本新古今集が成った。
(在位1183〜1198)(1180〜1239)
 文治ブンジ 皇紀1845 AD1185
 建久ケンキュウ 皇紀1850 AD1190
 
〔神皇正統記〕 第八十二代、第四十四世、後鳥羽院。諱は尊成タカヒラ、高倉第四の子。
御母七条ノ院、藤原殖子ショクシ(先代の母儀ボギおほくは后宮コウグウならぬは贈后ゾウコウ也。
院号ありしはみな先マヅ立后ののちのさだめなり。この七条院立后なくて院号の初なり。
但先准后ジョゴウの勅あり)、入道修理大夫シュリノダイブ信隆ノブタカノ女也。先帝西海に臨幸あ
りしかど、祖父法皇の御世なりしかば、都はかはらず。摂政基通モトミチのおとゞぞ、平氏
の縁にて供奉グブせられしかど、いさめ申輩トモガラありけるにや、九条の大路オホヂノ辺ホトリ
よりとゞまられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。還
幸あるべきよし院宣インゼンありけれど、平氏承引ショウイン申さず。よりて太上法皇の詔にて
此天皇たゝせ給ぬ。親王の宣旨センジまでもなし。先皇太子とし、即受禅の儀あり。翌年
ツギノトシ甲辰にあたる四月に改元。七月に即位。此同胞に高倉の第三の御子ましまししか
ども、法皇此君をえらび定申給けるとぞ。先帝センダイ三種の神器をあひぐせさせ給し故に
践祚の初ハジメの違例イレイに侍しかど、法皇国の本主にて正統の位を伝まします。皇太神宮
・熱田の神あきらかにまぼり給ことなれば、天位つゝがましまさず。平氏ほろびて後、内
侍所ナイシドコロ・神璽シンジはかへりいらせ給。宝剣はつゐに海にしづみて見えず。其比おひ
は昼ヒの御坐の御剣ギョケンを宝剣に疑せられたりしが、神宮の御告ツゲにて神剣をたてまつ
らせ給しによりて近比までの御まぼりなりき。
 
 三種の神器の事は所々に申侍しかども、先内侍所は神鏡也。八咫の鏡と申。正体は皇
太神宮にいはひ奉る。内侍所にましますは崇神天皇の御代に鋳かへられたりし御鏡なり。
村上の御時、天徳年中に火事にあひ給。それまでは円規エンキかけましまさず。後朱雀の御
時、長久年中にかさねて火ありしに、灰燼の中より光をさゝせ給けるを、おさめてあが
め奉られける。それど正体はつゝがなくて万代バンダイの宗廟にまします。宝剣も正体は
天の聚(草冠+聚)雲ムラクモの剣(後には草薙と云)と申は、熱田の神宮にいはひ奉る。
西海にしづみしは崇神の御代におなじくつくりかへらせし剣なり。うせぬることは末世
のしるしにやとうらめしけれど、熱田の神あらたなる御こと也。昔新羅国より道行
ダウギャウと云法師、来てぬすみたてまつりしかど、神変シンペンをあらはして我国をいでた
まはず。彼両種は正体昔にかはりましまさず。代々の天皇のとをき御まぼりとして国土
のあまねき光となり給へり。うせにし宝剣はもとより如在ジョサイのこととぞ申侍べき。神
璽は八坂瓊の曲玉と申す。神代より今にかはらず、代々の御身をはなれぬ御まぼりなれ
ば、海中よりうかび出給へることはり也。三種の御ことはよく心えたてまつるべきなり。
なべて物しらぬたぐひは、「上古の神鏡は天徳・長久の災ワザハヒにあひ、草薙の宝剣は海
中にしづみけり。」と申伝ること侍にや。返々カヘスガヘスひがことなり。此国は三種の正体
をもちて眼目ガンモクとし、福田フクデンとするなれば、日月の天をめぐらん程は一もかけ給
まじきなり。天照太神の勅に「宝祚のさかへまさむことあめつちときはまりなかるべ
し。」と侍れば、いかでか疑奉るべき。いまよりゆくさきもいとたのもしくこそおもひ
給れ。
 
 平氏いまだ西海にありしほど、源義仲ヨシナカと云物、まづ京都に入、兵威ヘイイをもて世の
中のことををさへおこなひける。征夷将軍に任ず。此官は昔坂上の田村丸までは東夷征
伐のために任ぜられき。其後将門マサカドがみだれに右衛門督忠文タダフンノ朝臣征東将軍を兼
て節刀セッタウを給しよりこのかた久くたえて任ぜられず。義仲ぞ初てなりける。あまりな
ることおほくて、上皇御いきどをりのゆへにや、近臣の中に軍イクサをおこし退治せんとせ
しに事不成ナラズして中々あさましき事なんいできにし。東国の頼朝、範頼ノリヨリ・義経ヨシツネ
等をさしのぼせしかば、義仲はやがて滅ぬ。さてそれより西国へむかひて、平氏をばた
いらげしなり。天命きはまりぬれば、巨猾コクワツもほろびやすし。人民のやすからぬこと
は時の災難なれば、神もちからをよばせ給はぬにや。
 
 かくて平氏滅亡してしかば、天下もとのごとく君の御まゝなるべきかとおぼえしに、
頼朝勲功まことにためしなかりければ、みづからも権をほしきまゝにす。君も又うちま
かせられにければ、王家の権はいよいよおとろへにき。諸国に守護をおきて、国司の威
をおさへしかば、吏務リムと云ことなばかりに成ぬ。あらゆる庄園・郷保ガウホウに地頭ヂトウ
を補せしかば、本所はなきがごとくになれりき。頼朝は従五位下前サキノ右兵衛佐ウヒャウエノスケ
なりしが、義仲追討の賞に越階ヲツカイして正四位下に叙し、平氏追討の賞に又越階、従二
位に叙す。建久の初にはじめて京上キャウノボリして、やがて一度に権大納言に任ず。又右近
の大将を兼す。頼朝しきりに辞ジシ申けれど、叡慮によりて朝奨テウシャウありとぞ。程なく
辞退してもとの鎌倉の館タチになむくだりし。其後征夷大将軍に拝任す。それより天下の
こと東方のまゝに成にき。
 
 平氏のみだれに南都の東大寺・興福寺やけにしを、東大寺をば俊乗シュンジョウと云上人す
ゝめたてければ、公家にも委任せられ、頼朝もふかく随喜ズイキしてほどなく再興す。供
養の儀ふるきあとをたづねておこなはれける、ありがたきことにや。頼朝もかさねて京
上しけり。かつは結縁のため、かつは警固のためなりき。
 
 法皇かくれさせ給て、主上世をしらせ給。すべて天下を治給こと十五年ありしかば、
太子にゆづりて尊号れいのごとし。院中にて又二十余年しらせ給しが、承久に、ことあ
りて御出家、隠岐国にてかくれ給ぬ。六十一歳おましましき。
 
 83 土御門ツチミカド天皇
 
 鎌倉前期の天皇。後鳥羽天皇の第一皇子。名は為仁タメヒト。土佐院・阿波院とも。承久
の乱後、自ら進んで土佐国に、のち阿波国に赴いた。
(在位1198〜1210)(1195〜1231)
 正治ショウジ 皇紀1859 AD1199
 建仁ケンニン 皇紀1861 AD1201
 元久ゲンキュウ 皇紀1864 AD1204
 建永ケンエイ 皇紀1866 AD1206
 承元ショウゲン 皇紀1867 AD1207
 
〔神皇正統記〕 第八十三代、第四十五世、土御門院。諱は為仁タメヒト、後鳥羽の太子。
御母承明ショウメイ門院、源在子アリコ、内大臣通親ミチチカの女也。父の御門の例にて親王の宣旨
なし。立太子の儀ばかりにてすなはち践祚あり。戊午の年即位、己未に改元。
 
 天下を治給こと十二年。太弟にゆづりて尊号例の如し。此御門まさしき正嫡シャウチャクに
て御心ばへもたゞしく聞え給しに、上皇鍾愛ショウアイにうつされましけるにや、ほどなく譲
国あり。立太子までもあらぬさまになりにき。承久の乱に時のいたらぬことをしらせ給
ければにや、さまざまいさめましけれども、ことやぶれにしかば、玉石ともにこがれて、
阿波国にてかくれさせ給。三十七歳おましましき。
[次へ進む] [バック]