71 歴代天皇
 
 71 後三条ゴサンジョウ天皇
 
 平安中期の天皇。後朱雀天皇の第二皇子。名は尊仁タカヒト。藤原氏の専権をおさえ、記
録所を置いて荘園を整理し、政治の積弊を改めた。
(在位1068〜1072)(1034〜1073)
 延久エンキュウ 皇紀1729 AD1069
 
〔神皇正統記〕 第七十一代、第三十八世、後三条院。諱は尊仁タカヒト、後朱雀第二の子。
御母中宮禎子テイシ内親王(陽明門院と申)、三条院の皇女也。後朱雀の御素意オンソイにて太
弟に立給き。又三条の御すゑをもうけ給へり。むかしもかゝるためし侍き。両流を内外
に(欽明天皇の御母手白香タシラカの皇女、仁賢天皇の御女、仁徳の御後也)うけ給て継体
の主となりまします。戊申年即位、己酉に改元。
 
 此天皇東宮にて久くおはしましければ、しづかに和漢の文、顕密の教までもくらから
ずしらせ給。詩哥シイカの御製もあまた人の口に侍めり。後冷泉のすゑざま世の中あれて民
間のうれへ有き。四月より位にゐ給しかば、いまだ秋のおさめにもをよばぬに、世の中
のなをりにける、有徳ウトクの君にをましましけるとぞ申伝はべる。始て記録所なむど云所
おかれて国のおとろへたることをなをされき。延喜・天暦よりこのかたにはまことにかし
こき御ことなりけむかし。
 天下を治給こと四年。太子にゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。これ御時より執
柄の権おさへられて、君の御みづから政をしらせ給ことにかへり侍にし。されどそのこ
ろまでも譲国の後、院中にて政務ありとは見えず。四十おましましき。
 
 72 白河シラカワ天皇
 
 平安中期の天皇。後三条天皇の第一皇子。名は貞仁サダヒト。六条帝とも。1086年(応徳
3)譲位、上皇となり、初めて院政を開き、堀河・鳥羽・崇徳の三代43年にわたって実権
をにぎった。96年(永長1)出家して法皇となる。
(在位1072〜1086)(1053〜1129)
 承保ショウホウ 皇紀1734 AD1074
 承暦ショウリャク 皇紀1737 AD1077
 永保エイホウ 皇紀1741 Ad1081
 応徳オウトク 皇紀1744 AD1084
 
〔神皇正統記〕 第七十二代、第三十九世、白河院。諱は貞仁サダヒト、後三条第一の子。
御母贈皇太后藤原茂子モチコ、贈太政大臣能信ヨシノブの女、実は中納言公成キンナリの女也。壬
子年即位、甲寅に改元。古のあとをおこされて野ノの行幸なむどもあり。又白河に法勝寺
ホッショウジを立、九重クヂュウの塔婆なども昔の御願ゴグワンの寺々にもこえ、ためしなきほど
ぞつくりとゝのへさせ給ける。こののち代ごとにうちつゞき御願寺ゴグワンジを立られし
を、造寺熾盛ザウジシジャウのそしり有き。造作のために諸国の重任チョウニンなんどいふことお
ほくなりて、受領ズリャウの功課コウクワもたゞしからず、封戸フコ・庄園シャウエンあまたよせをかれ
て、まことに国の費ツヒエとこそ成侍にしか。
 天下を治給こと十四年。太子にゆづりて尊号あり。世の政をはじめて院中にてしらせ
給。後に出家せさせ給ても猶そのまゝにて御一期オンイチゴはすごさせましましき。
 
 おりゐにて世をしらせ給こと昔はなかりしなり。孝謙脱徙(尸冠+徙)ダッシの後にぞ
廃帝ハイタイは位にゐ給ばかりと見えたれど、古代のことなればたしかならず。嵯峨・清和・
宇多の天皇もたゞゆづりてのかせ給。円融の御時はやうやうしらせ給こともありしにや。
院の御前にて摂政兼家のおとゞうけたまはりて、源の時中トキナカノ朝臣を参議になされたる
とて、小野宮の実資サネスケの大臣などは傾カタブケ申されけるとぞ。されば上皇ましませど、
主上シュシャウおさなくおはします時はひとへに執柄の政なりき。宇治の大臣の世となりては
三代の君の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。先代には関白の後は如在ジョサイの礼
にてありしに、あまりなる程になりにければにや。後三条院、坊の御時よりあしざまに
おぼしめすよし聞えて、御中ナカらひあしくてあやぶみおぼしめすほどのことになむあり
ける。践祚の時即関白をやめて宇治にこもられぬ。弟の二条の教通ノリミチの大臣、関白せ
られしことの外に其権もなくおはしき。まして此御代には院にて政をきかせ給へば、執
柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変する
にや侍けむ。執柄世をおこなはれしかど、宣旨センジ・官符クワンプにてこそ天下の事は施行
シカウせられしに、此御時より院宣インゼン・聴チャウノ御下文オンクダシブミをおもくせられしにより
て在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。世のすゑになれるすがたなるべきにや。
 
 又城南セイナンの鳥羽と云所に離宮をたて、土木の大なる営イトナミありき。昔はおり位の君
は朱雀院にまします。これを後院ゴインと云。又冷然院にも(然ノ字火のことにはゞかりあ
りて泉の字に改む)おはしけるに、彼所々にはすませ給はず。白河よりのちには鳥羽殿
をもちて上皇御坐ゴザの本所ホンジョとはさだめられにけり。
 
 御子堀河のみかど・御孫鳥羽の御門・御ひこ崇徳の御在位まで五十余年(在位にて十四
年、院中にて四十三年)世をしらせ給しかば、院中インチュウの礼なんどいふこともこれより
ぞさだまりける。すべて御心のまゝにひさしくたもたせ給し御代なり。七十七歳おまし
ましき。
 
 73 堀河ホリカワ天皇
 
 平安後期の天皇。白河天皇の皇子。名は善仁タルヒト。父上皇が院政を開く。
(在位1086〜1107)(1079〜1107)
 寛治カンジ 皇紀1747 AD1087
 嘉保カホウ 皇紀1754 AD1094
 永長エイチョウ 皇紀1756 AD1096
 承徳ショウトク 皇紀1757 AD1097
 康和コウワ 皇紀1759 AD1099
 長治チョウジ 皇紀1764 AD1104
 嘉承カショウ 皇紀1767 AD1106
 
〔神皇正統記〕 第七十三代、第四十世、堀河院。諱は善仁タルヒト、白河第二の子。御母
中宮賢子ケンシ、右大臣源顕房アキフサの女、関白師実モロザネのおとゞの猶子イウシ也。丙寅の年即
位、丁卯に改元。このみかど和漢の才ましましけり。ことに管弦・郢曲エイキョク・舞楽の方あ
きらかにまします。神楽の曲などは今の世まで地下ヂゲにつたへたるもこの御説ゴセツ也。
 天下を治給こと二十一年。二十九歳おましましき。
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