51 歴代天皇
 
 凡本朝流布の宗シュウ、今は七宗也。これ中にも真言・天台の二宗は祖師の意巧イゲウ専モハラ
鎮護国家のためと心ざされけるにや。比叡山には(比叡と云こと桓武・伝教心を一にして
興隆せられしゆへなづくと彼山の輩トモガラ称ショウスル也。しかれども旧事本紀クジホンギに比叡
の神の御こと見えたり)顕密ならびて紹隆セウリュウす。殊に天子本命ホンミャウの道場をたてて
御願ゴグワンを祈る地なり(これは密につたへし)。又根本中堂を止観院シクワンインと云。法
花ホッケの経文キャウモンにつき、天台の宗義により、かたがた鎮護の深義ジンギありとぞ。東寺
トウジは桓武遷都の初、皇城の鎮シヅメのためにこれをたてらる。弘仁の御時、弘法に給て
ながく真言の寺とす。諸宗の雑住ザフヂュウをゆるさざる地也。此宗を神通乗ジンヅウジョウと
云。如来果上クワシャウの法門にして諸教にこえたる極秘密ゴクヒミツとおもへり。就中ナカンヅク我
国は神代よりの縁起、此宗の所説に符合せり。この故にや唐朝に流布せしはしばらくの
ことにて、則スナハチ日本にとゞまりぬ。又相応の宗なりと云もことはりにや。大唐の内道
場ナンダウチャウに准じて宮中に真言院をたつ(もとは勘解由使カゲユシの庁チャウなり)。大師奏
聞ソウモンして毎年正月この所にて御修法ミシホあり。国土安穏の祈祷、稼穡豊饒カショクブネウの秘
法也。又十八日の観音供クワンオンク、晦日ツゴモリの御念誦ミネンジュ等も宗によりて深意ジンイある
べし。三流の真言いづれと云べきならねど、真言おもて諸宗の第一とすることもむねと
東寺によれり。延喜の御宇ギョウに綱所カウショの印鎰インヤクを東寺の一阿闍梨にあづけらる。
仍法務のことを知行チギョウして諸宗の一座たり。山門・寺門は天台をむねとする故にや、
顕密をかねたれど宗の長をも天台座主ザスと云めり。此天皇諸宗を並て興コウぜさせ給け
り。中にも伝教・弘法御帰依ゴキエふかゝりき。伝教始て円頓エンドンの戒壇カイダンをたつべき
よし奏せられしを、南京ナンキャウの諸宗表ヘウを上タテマツリてあらそひ申ししかど、ついに戒壇
の建立をゆるされ、本朝四ケ所の戒場となる。弘法はことさら師資シシの御約ゴヤクありけ
れば、おもくし給けるとぞ。
 
 此両宗の外、華厳・三論サンロンは東大寺にこれをひろめらる。彼華厳は唐の杜順トジュン和
尚よりさかりになれりしを、日本の朗弁ラウベン僧正伝て東大寺に興隆す。此寺は則此宗に
よりて建立せられけるにや、大華厳寺と云名あり。三論は東晋トウシンの同時に後秦コウシンと
云国に、羅汁ラジュウ三蔵と云師来て、此宗をひらきて世に伝たり。孝徳の御世に高麗の僧
恵潅エクワン来朝して伝始ける。しからば最前流布の教ヲシヘにや。其後道慈ダウジ律師請来
シャウライして大安寺ダイアンジにひろめき。今は花厳ケゴンとならびて東大寺にあり。法相ホッソウ
は興福寺にあり。唐玄奘ゲンジャウ三蔵天竺より伝て国にひろめらる。日本の定恵ヂャウエ和
尚(大織冠の子なり)彼国にわたり玄奘の弟子たりしかど、帰朝の後ノチ世をはやくす。
今の法相は玄方(日偏+方)ゲンバウ僧正と云人入唐して泗州シシウの智周チシウ大師(玄奘二
世の弟子)にあひてこれを伝て流布しけるとぞ。春日の神もことさら此宗を擁護し給な
るべし。此三相に天台をくはえて四家シケの大乗ダイジョウと云。倶舎グシャ・成実ジャウジツなむ
といふは小乗ショウジョウなり。道慈律師おなじく伝て流布せられけれども、依学エガクの宗に
て、別に一宗を立タツルことなし。我が国大乗純熟ジュンジュクの地なればにや、小乗を習人な
きなり。
 
 又律宗は大小に通ずる也。鑑真和尚ガンジンワジャウ来朝してひろめられしより東大寺をよ
び下野シモツケの薬師寺・筑紫の観音寺に戒壇をたてて、此戒をうけぬものは僧籍ソウセキにつら
ならぬ事になりき。中古より以来、其名ばかりにて戒体をまぼることたえにけるを、南
都の思円シエン上人等章疏シャウショを見あきらめて戒師となる。北京ホクキャウには我禅ガゼン上人
入宋して彼土の律法をうけ伝てこれをひろむ。南北の律再興して彼宗に入イル輩ヤカラは威儀
を具することふるきがごとし。
 
 禅宗は仏心宗ブッシンシュウとも云。仏の教外ケウゲ別伝の宗なりとぞ。梁の代に天竺の達磨
大師来てひろめられしに、武帝に機キかなはず。江カウを渡て北朝にいたる。嵩山スウザンと
云所にとゞまり、面壁メンペキして年ををくられける。後に恵可エカこれをつぐ。恵可より下
シモ、四世に弘忍グニン禅師ゼンジときこえし、嗣法シホフ南北に相分る。北宗の流をば伝教・慈
覚伝て帰朝せられき。安然アンネン和尚(慈覚孫弟)教時諍論ケウジサウロンと云書に教理の浅深
を判ずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、うけ伝ツタフル人なくてたえにけき。
近代となりて南宗ナンシュウのながれおほくつたはる。異朝には南宗の下に五家あり。その中
ウチ臨済リンザイ宗の下より又二流となる。これを五家ゴケ七宗シチシュウと云。本朝には栄西ヤウセイ
僧正、黄竜ワウリョウの流をくみて伝来の後、聖一シャウイチ上人、石霜セキサウの下シモつかた虎丘クキウ
のながれ無準ブシュンにうく。彼宗のひろまることは此両師よりのことなり。うちつゞき異
朝の僧もあまた来朝し、此国よりもわたりて伝しかば、諸家の禅おほく流布せり。五家
七宗はとはいへども、以前の顕・密・権ゴン・実ジツ等の不同には相似ニルべからず。いづれも
直指人心ヂキシニンシン、見性成仏ケンシャウジャウブツの門をばいでざるなり。
 
 弘仁の御宇より真言・天台のかりになることを聊しるし侍につきて、大方の宗々伝来の
おもむきを載たり。極てあやまりおほく侍らん。但君としていづれの宗をも大概しろし
めして捨られざらんことぞ国家攘災ジャウサイの御はかりことなるべき。菩薩・大士ダイシもつ
かさどる宗あり。我朝の神明もとりわき擁護し給教ヲシヘあり。一宗に志ある人余宗をそし
りいやしむ、大オホキなるあやまりなり。人の機根キコンもしなじななれば教法も無尽なり。
況わが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、極たる罪業
ザイゴフにや。われは此宗に帰すれども、人は又彼宗に心ざす。共に随分の益ヤクあるべし。
是皆今生一世コンジャウイチセの値遇チグにあらず。国の主ともなり、輔政フセイの人ともなりな
ば、諸教をすてず、機をもらさずして得益トクヤクのひろからむことを思給べきなり。
 
 且は仏教にかぎらず、儒・道の二教乃至もろもろの道、いやしき芸までもおこしもちい
るを聖代セイダイといふべきなり。凡男夫ナンプは稼穡カショクをつとめてをのれも食し、人にも
あたへて、飢ざらしめ、女子は紡績をこととしてみづからもき、人をしてあたゝかにな
らしむ。賎イヤシキに似たれども人倫ジンリンの大本タイホン也。天の時にしたがひ、地の利によれ
り。此外商沽シャウコの利を通ずるもあり、工巧クゲウのわざを好もあり、仕官に心ざすもあ
り、是を四民と云。仕官するにとりて文武の二の道あり。坐して以モッテ道を論ずるは文士
の道也。此道に明ならば相シャウとするにたへたり。征ユキて功を立タツルは武人ブジンのわざな
り。此わざに誉れあらば将シャウとするにたれり。されば文武の二はしばらくもすて給べか
らず。「世みだれたる時は武を右にし文を左にす。国おさまれる時は文を右にし武を左
にす。」といへり(古に右を上カミにす。仍しかいふなり)。かくのごとくさまざまなる
道をもちいて、民のうれへをやすめ、おのおのあらそひなからしめん事を本モトとすべし。
民の賦斂フレンをあつくしてみづからの心をほしきまゝにすることは乱世乱国のもといな
り。我国は王種ワウシュのかはることはなけれども、政みだれぬれば、暦数ひさしからず。
継体もたがふためし、所々にしるし侍りぬ。又いはむや、人民として其職をまぼるべき
にをきてをや。
[次へ進んで下さい]