07a 暦と迷信
 
 日の吉凶の迷信事項は,初めは吉と凶と相半アイナカばするよう配せられたと考えられま
すが,吉よりも凶の方がより関心を持たれるためか,暦を見ますと禁忌,悪日の方が多
いようです。これはたとえ某日の暦注が吉であっても,この日に凶の暦注が重なります
と,吉の方は凶の方に譲って注せず,凶の方だけを注することによるものです。宝暦5
年に貞享暦を改めて宝暦暦法が施行された際には,そのことが勘案されています。この
ときの暦書のはじめに,
 
 暦面にいむ日ハ多しといへとも吉日ハ天しや,大みやうの二つのみにて世俗セゾクの日
 取足タリがたかるべし、仍て今天恩テンオン、母倉ボソウ、月徳ゲットク、三ツの吉日を記して知
 しむるものなり
 
とあり,吉日を増やしたのでした。暦注はこのように,度々勝手に吉日・凶日を増減し
たり,入れ替えたりしています。
 また暦の推算法スイサンホウにより,月朔とか節気に1日の前後を生ずることは珍しいこと
ではありません。どの暦法を採用したかによっても,暦注の選日も変わってしまいます。
貞享の改暦で保井春海が「宿曜経」の二十七宿を廃止して,中国流の二十八宿を採用し
たことにより,それによる吉凶は従来のものと全く違ったものになってしまったことは,
前述のとおりです。
△俗暦と暦注
 明治の改暦ときに迷信的暦注は禁止されましたが,官憲の取り締まりにも拘わらず,
いわゆるお化け暦が繁盛しました。旧暦時代の暦注を始め,旧暦時代には記載されなか
った九星・六曜や,三隣亡サンリンボウなどの暦注が記載され,運勢暦とか九星暦とか,日用
便覧など種々の名称の暦本が出回ってきました。
 昭和17年に暦注記載禁止の命が出されましたが,戦後同21年,伊勢神宮神部署から出
版の本暦ホンレキ・略本暦が国の手を離れますと,暦の出版も自由となり,再び暦注が記載
された俗暦が氾濫することになりました。旧暦時代に比べますと暦注は大分整理されま
したが,それでも九星・六曜・三隣亡・不成就日・一粒万倍日・大つち・小つちなどが
出てきました。
 更に国暦であった伊勢神宮司長の神宮暦までもが,旧暦の日付を記載し,また六曜ま
でも付録で掲げるようになりました。
△暦の迷信に対する意見
 暦注は全く荒唐無稽で採るに足らないものですが,古人でも心ある人はこれに反論し
てしています。「徒然草ツレヅレグサ」に,
 
 赤舌シャクゼツ日といふ事、陰陽道にはさたなき事なり、昔の人是をいまず、此頃何もの
 のいひ出でていみはじめけるにか。此日ある事末通らずといひて、某日いひたりし事
 したりし事かなはず、得たりし物は失ひ、企クハダてありし事ならずといふ、おろかな
 り。吉日をえらみてなしたるわざの末通らぬを数へて見んも又ひとしかるべし、其ゆ
 へは、無常変易ヘンエキのさかひ、ありと見るものも有せず、始ある事終なし、志はとげ
 ず、望はたえず、人の心不定なり、物皆幻化也 何物かしばらくも住する。此理を知
 らざるなり、吉日に悪をなすに必凶なり、悪日に善を行ふに必ず吉なりといへり、吉
 凶は人によりて日によらず
 
とあります。此処に「赤舌日」とは,万事に凶の日です。作者の吉田兼好が「吉凶は人
によりて日によらず」といっているのは,実に名言です。
 保位春海が「秦山ジンザン集」壬癸録ジンキロクにおいて,大阪懐徳堂カイトクドウ主中井竹山は
「草茅危言ソウボウキゲン」の「暦日の事」の項において,長崎の人西川如見ジョケンは「天文
義論」において,それぞれ意見を述べています。
 前述のように,明治5年11月改暦詔書において,
 
 殊ニ中下段ニ掲クル所ノ如キハ率オオムネ妄誕無稽モウタンムケイニ属シ人知ノ開達ヲ妨クルモ
 ノ少シトセス
 
とあり,同11月24日の太政官布告において,
 
 但略暦ハ御頒行太陽暦ヲ標準ト可致イタスベク旧暦中歳徳神ノ善悪ヲ始メ中下段掲載候不
 稽フケイノ説等増補致候儀一切不相成候
 
とし,暦面には一切迷信事項となる暦注の記載を禁止したのです。国暦である政府編纂
の本暦・略歴は,以後全く暦注記載を廃止したのでした。

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