02c 乃木神社
 
〈詩歌〉
乃木将軍が古来稀に見る優れた詩人である事は、広く世に知られている。
将軍は、御在世中実に多くの漢詩・和歌を残しておられるが、それらを通じて、将軍の
人柄や、その時々の風懐を偲び得る。
殊にその漢詩は、中国人識者をも驚嘆させる程で、不朽の名作一二を下らず、今日なお
多くの吟詠家によって愛誦されている。
 
漢詩
 
 山川草木轉荒涼 サンセンソウモクウタタコウリョウ
 十里風腥新戦場 ジュウリカゼナマグサシシンセンジョウ
 征馬不前人不語 セイバススマズヒトカタラズ
 金州城外立斜陽 キンシュウジョウガイシャヨウニタツ
 
  明治三十七年六月八日、旅順への途次、金州城外南山の新戦場を訪れ、胸中無量の
 感慨を以て作られた。南山は、長男勝典中尉を含む、数多くの将兵が斃れた激戦地で
 ある。
 
 爾靈山險豈難攀 ニレイザンノケンアニヨジガタカランヤ
 男子功名期克艱 ダンシコウミョウコクカンヲキス
 鐵血履山山形改 テッケツヤマヲオオイテサンケイアラタマル
 萬人齊仰爾靈山 バンニンヒトシクアオグニレイサン
 
  明治三十七年十二月十一日、二〇三高地が陥ち旅順が一段落ついた頃の作である。
 旅順攻略戦に斃れた将兵は一万近くに上ったが、その霊を労い、この功を永く後世に
 伝えんとして爾霊山と名付けられた。この激戦に於いて次男保典少尉も戦火に斃れた。
 
 皇師百萬征強虜 コウシヒャクマンキョウリョヲセイス
 野戦攻城屍作山 ヤセンコウジョウシカバネヤマヲナス
 愧我何顔看父老 ハズワレナンノカンバセアッテカフロウニマミエン
 凱歌今日幾人還 ガイカコンニチイクニンカカエル
 
  明治三十八年法庫門滞陣中、日露の講和が成った後の作である。この戦争中祖国の
 為に戦火に斃れた部下将兵に対し、更にその遺族に対し、深い悲しみと自責の念を抱
 かれ、その御気持をこの詩に託されたのである。
 (以上の三編は「乃木三絶」と称されている)
 
 崚曽(山偏+曽)冨嶽聳千秋 リョウソウタルフガクセンシュウニソビユ
 赫灼朝暉照八州 カクシャクタルチョウキハッシュウヲテラス
 休説區々風物美 トクヲヤメヨククフウブツノビ
 地靈人傑是神州 チレイジンケツコレシンシュウ
 
 吾愛馬名紅 ワガアイバナハクレナイ
 溘焉死去空 コウエントシテシキョムナシ
 滿蒙千里野 マンモウセンリノノニ
 見汝戦時功 ミルナンジガセンジノコウ
 
和歌
 
 色あせて木ずゑに残るそれならで ちりてあとなき花ぞ戀しき
 武士は玉も黄金もなにかせむ いのちにかへて名こそをしけれ
 くはしほこ千足の國のますらをの あらみたまこそつるぎなりけれ
 まがつひのあらびはあらじ武士の つるぎの光くもらざりせば
 月ごとに月にみつれどひとゝせに くまなき影をいくたびか見る
 國のため力の限りつくさなむ 身のゆく末は神のまにまに
 
〈御製のこと〉
将軍は生涯明治天皇に臣節を尽くされ、明治天皇もまた将軍を厚く信任せられたことは
言うまでもないが、中でも皇孫迪宮(昭和天皇)の御降学に際し、特に聖旨をもって学
習院院長に任ぜられ、國の将来を担うべき皇孫をはじめ華族子女の教育を託されたこと
は、明治天皇が乃木将軍を如何に信頼されていたかを物語っている。
 
明治天皇御製
 
 教育
 いさをある人を教の親として おほしたてなむ大和なでしこ
 
泰平の世に御在位の期間も短く、明治天皇の聖徳大業の陰にかくれて、大正天皇が資性
明敏で慈愛深く、文藻豊かな天皇であられたことは殆ど知られていない。乃木将軍は御
殉死の直前、山鹿素行先生が我が皇統を明らかにした『中朝事実』を美濃半紙十数枚に
抜き書きし大正天皇に進献され、天皇はその献上書を精読せられ、将軍の忠誠を思し召
され、数編の漢詩に追懐の情を詠まれている。
 
大正天皇御製
 
 憶陸軍大将乃木希典 リクグンタイショウノギマレスケヲオモウ
 滿腹誠忠世所知 マンプクノセイチュウヨノシルトコロ
 武勲赫赫遠征時 ブクンカクカクエンセイノトキ
 夫妻一旦殉明主 フサイイッタンメイシュニジュンジ
 四海流傳絶命詞 シカイリュウデンスゼツメイノシ
 
学習院院長に任ぜられた乃木将軍は、全身全霊を注いで皇孫迪宮(昭和天皇)の御養育
にあたられた。また殉死直前の九月十二日、『中朝事実』と『中興鑑言』の二冊を進献
され、最後のお暇乞いをなされている。将軍の教育は厳しいものであったが、昭和天皇
は将軍を院長閣下と慕われ、後に御自ら「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希
典学習院長であった」と語られている。
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