「大森親山獅子大権現舞」
 
              参考:昭和五十二年九月 大森親山獅子大権現舞保存会
 
一、大森親山獅子大権現舞の沿革
 文明十三年、往古奥州上津野の郡、尾去の西山にある赤沢の方から、毎日のように化
鳥バンドリが現れ田や畑を荒らし廻るので、尾去の宮司始め村人全員がこれを退治すべく
神に祈願したところ、同年旧九月二十三日夜に異様な鳴き声を発し、その後、化鳥の飛
来は途絶えた。最後の鳴き声をした位置を探し求めたところ、大森山の中腹、赤沢(大
木古木、昼尚暗き深山)の奥に化鳥の死骸が確認された。その死骸を見るに、左右両翼
の長さ十三尋ヒロ、頭は大蛇の如く、足は牛の如く、毛は赤く白く斑らにして、ところど
ころに金毛、銀毛が生えており、また腹を断ち割ってみたところ、胃の中には穀、魚、
草の如きもの一物もなく、金、銀、銅、鉛の岩石のみが充満していた。これも神のお告
げと信じ、付近を探したところ、死骸のそばに獅子頭の形をした露頭(金を含有する岩
石)があった。化鳥の死は、このお獅子様により退治されたものと言い伝えられている。
その後、この地にお獅子神社を建立して舞を奉納し、これによって平和な農作業ができ
た。また、鉱山カネヤマも繁昌したので、このときの舞(現海沼寿世宮司のおおよそ二十代
前)が毎年舞い継がれてきたものである。
 
 然るに明治六年神仏分離令が発せられて以来、舞は中断されたのである。同三十年頃
より復活して鉱山繁昌、五穀豊穣、家内安全、無病息災を祈願しつつ、村内各部落を舞
廻りしたのである。
 その後、大正五年頃より尾去の八幡神社社殿においてのみ舞奉納してきたものである
が、同十年頃より再度中断され、中絶の状態になったのであるが、昭和十三年に至り、
尾去沢鉱山山神社の遷座祭が行われた際、先代宮司海沼寅吉氏がこの舞を奉納して、昔
の姿を再現したのである。同十四年八幡神社の祭典において雅楽を奉納したい旨を佐藤
勝徳氏が宮司へ申し込みしたところ、昔より残された獅子大権現舞を練習して奉納する
様に勧められ、その意を体して練習しようとしたが戦争中のことで、楽人がなくそのま
ゝになっていたのである。先代宮司他界後、弟の海沼常吉氏に乞うて教えを受けたが(
常吉氏は笛吹き手であった)本式に覚えられず、奉納するまでに至らなかったのである。
その後同二十七年七滝村高清水に先代宮司時代にこの舞を舞った和田広吉翁(当時七十
七才)が健在で居られるを知り、氏子の若者達に相計らって保存会を結成して和田翁を
招聘して、八幡神社社務所において昔からの本式の舞を修得することができたのである。
その後、保存会長似鳥清を先頭として練習を重ね、且つ同三十九年十一月十七日秋田県
無形民俗文化財に指定され、以後県より推薦されてNHK秋田放送局開局記念式典行事
の一環として県内の民俗芸能と共に秋田県民会館で公開し、また仙台市で開催された東
北六県北海道の民俗芸能祭に県代表として参加して好評を博す等、県内外において大い
に好評を得たのである。
 
 昭和五十年佐藤勝徳舞人転居後、一時衰微の兆候にあったので八幡神社の氏子の若者
達が、その復活に熱意を示し、高杉正巳、佐藤久永の舞保存会正副会長のもとに前舞人
佐藤勝徳氏帰郷を機に教えを受けて現在に至るのである。
 
二、舞の種別
(一)前舞
 1 幣束の舞
 2 巫女釼の舞
 3 権現形の舞
 4 青柳の舞
 5 釼ツルギの舞
 6 鈴の舞
 7 扇の舞
 
(二)本舞
 1 拝みの手(神様を拝む仕草)
 2 えちきの手(神仏の意)
 3 四方固め(三方頭)(悪病、悪魔その他の悪を防ぐため四方を固めるの意)
 4 七五三(家内安全を祝う意)
 5 冠(前記1〜4までをまとめて舞う意)
 
(三)米汲みの舞
 1 この舞は昔の儀式で、その年の年男が正月元旦の早朝、注連縄シメナワを巻いた桶を
  持って井戸へ行き、東天に向かって手を合わせて拝み、
   「春の初めの年男水を汲まないで黄金(米)を汲む」
  と唱えて、若水を汲む仕草をして舞う。
 2 前記の儀式の際、鏡餅を七三に切り、その三の方を尚三つに切って、井戸へ入れ、
  七の方を桶に入れて東天を拝む。
 3 若水を汲んでこれを床の間の産土神社に供えて、その年の家内安全、無病息災、
  店生繁昌、五穀豊穣を祈る意の舞である。
 4 井戸に入れた切餅を食べると虫歯にならないと言われている。
 
(四)その他
 1 三十三歳、四十二歳の厄除けの舞
 2 安産を祈願する舞
 3 家屋新築の舞
 4 地鎮祭の舞
  などがあるが、現在行っていないが依頼があれば舞う。
 
 以上は口碑、及び古文書による。
 
前画面へ戻る