は 八幡神社
 
〈はちまんぐう〉
 八幡宮
 誉田別尊ホンダワケノミコト(応神天皇)を祀る神社の称号。一般には比売ヒメ神と息長帯姫命
オキナガタラシヒメノミコト(神功皇后)を併せ祀る。ヤハタとも訓むのは朝鮮語で海を云うハタに
由来するとも説明されるが、旧説では天より八流の旛ハタの降下によると云い、八は大八
洲の義、幡は三韓降伏の軍功によって称する(倭訓栞)とし、或いは弥畠ヤハタの地名とも
云う。
 八幡の初見は筑紫住吉八幡二社とある続紀天平九年(737)の記事で、これは筥崎宮を
指している。全国の八幡宮は宇佐八幡宮をもって本宗とし、清和天皇貞観元年(859)に
大安寺僧行教の奉請によって山城国男山に勧請、後冷泉天皇朝に頼朝は男山の分霊を奉
じて相模国由比郷に勧請したのが鎌倉の鶴岡八幡宮であり、武士の登場と共に全土に鎮
祭を見るに至って、社格を有するものだけでも四三〇社に達していた。
 
〈うさはちまんぐう〉
 宇佐八幡宮 大分県宇佐市に鎮座
 祭神は八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后。延喜の制、名神大社豊前国の一社。
所謂八幡様の本宮であ。
 奈良時代、和気清麻呂が勅使として下って当社の神託をうかがって僧の道鏡の非望を
くじき、また奈良の大仏建立の際、宇佐八幡大神が来援するとの託宣があり、以来、神
仏習合の風潮に棹して護国霊験威力神通大菩薩として国家の崇敬を受け社運は栄えた。
 
 式内社として八幡大菩薩宇佐宮と見え、明治四年五月十四日に官幣大社に列格。例祭
日は三月十八日。神託によって養老年間から始まったと云う放生会は盛儀であり、現在
も仲秋祭として十月一日より三日間行われる。
 大正年間、十年毎に例祭には勅使を差遣せられることとなった。なお天皇即位の時、
或いは国家の大事に際し、かっての和気清麻呂の大功に因んで、和気氏の五位使と称し
た。宇佐津彦の子孫は、中世に宮成・到津の両家に分かれ、交互に大宮司を世襲し、現に
到津家が奉仕している。
 
関連リンク [鹿角の郷の「碑文(由緒)」ウォッチング(神社・その他神社の碑文)]
 
〈はちまんしんこう〉
 八幡信仰
 八幡信仰とは、八幡神に対する信仰で、わが国で最も普及した信仰の一つである。
 この信仰の本源は、九州の宇佐八幡と一般に云われている。これが中央に進出するの
は、奈良の大仏鋳造に乗じて、即ち宇佐から禰宜尼大神朝臣杜女が上京し、八幡神が大
仏鋳造を授けようと託宣したと伝える。このことにより宇佐八幡宮は、国家の大事業に
関係することとなった。よって、天応元年朝廷から大菩薩号を贈られ、神仏習合の先駆
となった。
 貞観二年、僧行教により山城国岩清水に勧請された。この時より祭神を応神天皇・神功
皇后であるとの説が広まり、王城鎮護の神として崇められ、伊勢に次ぐ第二の宗廟と称
せられた。
 やがて、清和源氏の氏神ともなり、武家政権の成立と共に武神的性格を帯び、八幡は
武人に篤く信仰されるようになった。
 一方、処女懐胎・聖母神子の母子神伝承を基底として、一般民衆の間に広まり有力な神
格として全国的に祀られるに至った。
 
△八幡大菩薩
 八幡大菩薩とは、わが国古来伝承され信仰されてきた八幡神に、仏教との習合思想が
普及して菩薩号を奉ったものである。
 奈良朝の初期以来、宇佐八幡宮は最も仏教化した神社と云われるが、天応年間(781)
に護国霊験威力神通大菩薩と号したに始まると云う。仏教に守られる八幡神と云う意味
で、初め真言宗の奉戴するところであったが、後に広く諸宗にも普及し、一般にも浸透
し、用いられた。
 明治元年四月、石清水・宇佐・筥崎の八幡大菩薩の称号を廃し、八幡大神と改称するこ
ととなった。
[詳細探訪]〈八幡信仰〉
[詳細探訪]〈権現信仰〉
 
関連リンク [鹿角物語「56「八幡平」(国立公園)の名の由来」」]

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