01 菅原神社・菅原道真公
参考:堀書店発行「神道辞典」など(以下本ボート同じ)
〈きたのてんまんぐう〉
北野天満宮(北野社・天満天神) 鎮座地京都市上京区馬喰町・旧官幣中社
菅原道真公を主祭神とし、相殿東座は中将殿、西座は吉祥女。文道の大祖風月の本主
として古来朝野の崇敬極めて厚く、天満宮・天満大自在天神・天満神・火雷天神・北野聖廟
等と称え、全国殆ど各地に祀られる天満宮・北野神社・菅原神社・天神社の多くは本社と、
太宰府天満宮よりの勧請である。
延喜三年(903)道真太宰府の配所に薨ずるや京畿に雷電霹靂の変頻りに起こり、世人
これを道真の祟りとなした。朝廷も勅して火雷天神の号を賜い、其後讒者及び其宗族は
不慮の災害にかかる者多く、朝野その威霊をおそれた。
朱雀天皇の天慶五年京七条坊の多治比文子(奇子)に対して、右近馬場に住みたいと
神託あり、文子は貧しき故に家辺に瑞籬ミヅガキをむすびひそかに祀ること五年。村上天
皇の天暦元年には近江比良の神官良種の子の太郎丸に託宣があった。ここに文子・良種及
び北野朝日寺の僧最珍等が力を合わせ、現在地に社殿を造立、天満天神と崇め祀った。
天暦元年六月九日、時に菅公薨去四十四年目と伝える。
かくて村上天皇の天暦三年右大臣藤原帥輔は神殿屋舎を造増し、神宝諸物を奉る。永
延元年皇太后の典侍に神教あり、更に神殿を改造、同年八月五日初めて北野祭を祀り、
官幣を奉る。正暦五年伊勢・石清水等の十六社に、吉田・広田・北野の三社を加えて十九社
と定め、祈雨の奉幣があった。其後二十二社の一に列して格式定まり、王城鎮護の社と
して歴朝の殊遇を蒙り、行幸御幸一再ならずその他貴顕の社参・参籠・祈願はもとより、
庶民の崇敬他に異なるものがある。
徳川将軍家も豊臣家を継承して朱印地六百石余を献じ、維新まで曼殊院が別当で、松
梅院・徳勝院・妙蔵院の下、数十の坊があった。皇族の別当は護良親王を始とし譲仁親王
(天保十三年薨去)に終わる。
明治四年官幣中社に列せられる。例祭は八月四日。祭神にふさわしく、筆始祭(一月
二日)、梅花祭(二月二十五日)、御誕辰祭(六月二十五日)、名月祭(旧八月十五日、
九月十三日)、余香祭(十月二十九日)、献茶祭(十二月一日)、大万燈祭(五十年目
)等風雅な祭が執行され、特殊神饌が供えられる。十月一日より四日に至る神幸還幸祭
は瑞饋ズイキ祭で、京の秋祭の最初をかざる一異彩である。
宝物として国宝北野天満宮根本縁起(伝信実本)の外、縁起絵巻には重文の行光本・
光信本・光起本等があり、その外金光明最勝王経・兼永本日本書紀・太刀鬼切丸等の重文が
あり、宝物殿には数多くの宝物・貴重品を蔵む。
社殿と本殿は所謂八棟権現造で国宝建造物、中門・廻廊・東門等重文であ。境内を北南
に貫通する紙屋川の東側は太閤御土居で史蹟に指定せられ、樹木多様春秋の景色絶佳で
ある。[参考]北野神社発行『北野誌』・『菅公頌徳録』
関連リンク [松舘菅原神社] [北野天満宮]
〈だざいふてんまんぐう〉
太宰府天満宮 福岡県筑紫郡太宰府町に鎮座
祭神は菅原道真公。延喜三年二月二十五日、謫居の地榎寺に薨じ給うた公の御遺骸を
安楽寺の境内、即ち現在の本殿の地に葬り、聖廟と称え、天満大自在天神と崇め奉り、
同五年随臣味酒安行は神殿を造営し、次いで左大臣藤原仲平は勅を奉じて大宰府に下り
奉行して、同十九年に至り造営成る。これ本社の創始とされている。
醍醐天皇延長元年、公の本官を復し、一條天皇西暦正暦四年正一位左大臣、更に贈太
政大臣、勅使の下向数度に及び、二十二社に準ぜられる。
天正十九年、荒廃せる社殿を小早川隆景が造営し、また社領二百余町を寄進、文禄四
年には豊臣秀吉五百石の地を献じ、慶長年間には石田三成が楼門を建造する等武門庶衆
に寄進相つぐ。
明治四年国幣小社、同十五年官幣小社、同二十八年官幣中社に進められ、天満宮の惣
本社として、また文教の祖神として世の崇敬が厚い。[参考]竹内理三編『太宰府天満
宮資料』、貝原篤信著『太宰府天満宮故実』、長沼賢海・竹岡勝也・橋詰武生共著『太宰
府小史』
関連リンク [太宰府天満宮]
〈てんじんしんこう〉
天神信仰
天神信仰とは、神として崇められた菅原道真公の霊に対する信仰である。
本来、天神は地神クニツカミに対する「アマツカミ」で、特定の神を指すものではなかった
が、後に雷神信仰と結び付き、平安時代以後は特に道真公の霊への信仰と混同した。即
ち道真公が太宰府で薨じて後、その怨霊オンリョウの活動が激しく、加うるに、その霊が当時
の御霊信仰や雷神信仰と固く結び付き、天神と云えば道真公のことを指すまでに強力に
なった。
天暦元年(947)、遂に京都北野に道真公の霊を祀り(北野神社)、天満大自在天神と
か大政威徳天神などと称した。また道真公の霊が雷火をもって象徴されたので、火雷天
神とも云った。この信仰は、室町時代に全盛を呈し、朝野のただならぬ信仰を請け、や
がて文道の太祖と称讃、文学・詩歌の神と崇められた。後、各地に天神講が普及した。
[詳細探訪]
[次へ進む] [バック]