詳細探訪「毛馬内の盆踊」
 
〈盆踊りの由来〉
 毛馬内の盆踊りは、近年毛馬内の本町通りを舞台に踊られており、起源は文献資料から
少なくとも江戸中期には行われていたことが確認されています。
 踊りは、大太鼓と笛の囃子が付く「大の坂踊り」と七・七・七・五の甚句のみによる「甚句
踊り」の二つがあります。二つの踊りとも、かがり火を囲んで踊る輪踊りで、内側を向い
て優雅に踊るのが特徴となっています。
 また、踊り手は、男女とも顔は手拭いで独特の頬被りをして踊りますが、この地域は、
秋田・津軽藩の藩境で藩境争いが多く、婦女の略奪が絶えなかったので、それを逃れるため
に、男女の変装がおこなわれたのが、その名残りです。
 
 「毛馬に意の盆踊」は、情緒豊かで優雅な盆踊りとして、国の重要無形民俗文化財に指
定されています。
 8月21日から23日まで、町内路上にかがり火を焚き、その周りに細長い輪となり、踊
りが行われます。
 
 呼び太鼓(高屋、大拍子、七拍子の3曲)の後、大の坂踊り、甚句踊りの順に踊り、大
の坂踊りには笛と大太鼓の囃子が付きます。
 大の坂踊りは、京都の念仏踊りの流れを汲むという説、また、明暦3年(1657)に桜庭
光英が毛馬内に移封になった頃、すでに継承されていたとする説もありますが定かではあ
りません。昭和初期までは唄が付随していましたが、唄い手が途絶えたの、鼓笛のリズム
だけで踊っています。
 
 この地方の大太鼓は、南部藩時代に戦いの武装であった「軍馬」の生産に力を注ぎ、南
部馬産地として知られ、他藩への馬の売買が非常に厳しく、特殊な管理体制があったので、
この地方特有の馬皮製の大太鼓で、音に張りのある大太鼓が造られるようになりました。
 
 永禄8年(1565)から11年(1568)にかけて秋田近季が鹿角に攻め入り、南部信直が三
戸から出陣、近季勢を領外に駆逐しました。その折、毛馬内で遊興踊りを催し、将卒の労
をねぎらったのが甚句踊りの起源とされていますが定かではありません。甚句踊りは、唄
だけで踊り、唄詞は、豊作を祝うもの、郷土の風物等を紹介するものなどが多く唄われて
います。
 
 このような盆踊りを、文化4年(1807)、今から約190年前に菅江真澄は、2度目の鹿角
紀行は長期滞在となり、毛馬内近傍を歩きまわっていたようで、これらの日記や随筆のほ
かに、各地の民謡を集めた「ひなのひとふし」に、”ここは大の坂七曲り、中の曲り目で日
を暮す”、”夏蝉は、蜘クモのいかきに釣されて、これですぎよか夏のなかに”、”十七八は籠
の鳥、籠は小籠であそばれぬ”などふるい毛馬内盆踊りの唄を採録したりしております。
 
 踊り手の衣装は、一般には男は一重の着物・紋付き等に水色の蹴出し、女は襦袢にとき色
(うすもも色)の蹴出しが標準でしたが、近年になって江戸褄、訪問着、小紋等、華美な
衣装を纏うようになりました。
 
〈毛馬内の由来〉
△毛馬内の名前について
 この町の北西の奥深い沢に雌滝雄滝があり、その大きな雌滝の下に主が住んでいました。
その主が、ある人には月毛馬ツキゲウマに見え、ある人には芦毛馬に見えたことから「毛馬ケマ」
が、内はアイヌ語で「沢」という意味で、そこから「毛馬内」の名が生まれたという話が残
されています。
 またその昔、坂上田村麻呂が戦勝を祈願して、奥羽の七ケ所に建てたといわれる月山神
社の一つがそこにあり、この地域で最も高い月山山の麓は毛馬内沢という地名になってい
ます。
 
 毛馬内は、中世の頃には、この地の少し北部に当麻館という館がありましたが、南部氏
が、地域を統轄できる柏崎(台地の先端)に新城を築き城下町をつくりました。それが柏
崎新城です。当時は、天平の頃に大仏に金を献上されたといわれる白根(小真木)金山な
どを領し、長く続いた南部と秋田藩境争論等がある重要地帯でした。
 
 戊辰戦争後、明治政府の廃藩置県によって、鹿角はそれまでの南部藩から秋田県となり、
現在に至っています。
 毛馬内の史跡は柏崎新城跡をはじめ、生垣の美しい静かな武家屋敷通りの古町、城下町
らしい桝形道路など、至る所に史跡が残っています。
 
〈毛馬内の史跡〉
△柏崎新城の史跡
 大手坂を上ると三の丸小路に出ます。この附近に三の丸・二の丸の二重の空堀と土塁があ
りましたが、埋立てられ住宅地となっています。通りの中程が桝形になっていて、大手門
があった跡です。桝形は見通しがきかない鉤形の道で、毛馬内には数ケ所残っています。
二の丸通りの右側が御坂家、武具家、家中屋敷跡で、中程に内藤十湾の家塾育焉亭跡があ
ります。左側は代官所と御蔵跡です。本丸に近い所に、東洋史学の碩学内藤湖南の旧宅蒼
龍窟があります。
 
 二の丸と深い空堀をへだてた一郭が本丸跡です。その前の堀は別名耳捨沢と呼ばれてい
て、南部駒(馬)の移出が禁じられていたので、死んだ馬の耳と引き換えに埋葬許可を与
えたことによるものです。右側の空堀は搦手坂です。本丸は木立にかこまれていますが、
土塁や御田屋と呼ばれた桜庭家役所跡が残っています。御田屋の前に百数尺(32m)といわ
れる深い手掘りの井戸があります。本丸からは鹿角一円が眺められたのですが、今は鬱蒼
と茂った樹木におおわれ、広い庭園に古の昔が偲ばれるだけです。
 
△古町通りの史跡
 柏崎新城跡を下り、大手坂を北へ曲ると古町通りです。古町通りは毛馬内の代表的な武
家屋敷町で、どの家も美しい生垣をめぐらしています。この通りには、姫鱒の増殖で知ら
れる十和田湖開発の恩人和井内貞行邸跡、江戸折衷学派の泉沢牧太(号は履斎)、伊藤宗兵
衛(号は為憲)の旧宅があります。中でも伊藤家は宝暦元年(1751)の建築で、鹿角で最
も古い武家屋敷です。為憲は寛政8年(1796)30歳で江戸に出奔、山本北山に学び、その
後長崎奉行公用人を務めました。文政10年(1827)の著作「鹿角縁起」は、鹿角で最も古
い郷土誌です。泉沢履斎は朝川善庵門下で、伊勢亀山藩に150石で召された折衷学の碩学
です。その泉沢家の裏に、相馬大作が津軽公襲撃に失敗した後、1ケ月程潜伏した跡があ
ります。仁叟寺には当麻館から移した山門があり、それを下ると、宝暦天保大凶作餓死者
供養一字一石の経塚があります。
 
△本町通り
 本町通りは、上町・中町・下町の3町に分かれ、毛馬内の中心街ですが、昔ながらの町並
みが残っていて、中町には珍しい雁木造りと格子のある商家が残っています。本町通の地
下には、古い水道の松丸太が埋設されており、これは江戸時代の初め頃、飲料水の乏しい
町通りに水(上水道)を引いたもので、ごく最近まで使用されていました。
 
△萱町通りの史跡
 十和田市民センター西側の通りが萱町通りで、城下町の入口であって、十五人御同心丁
となっていました。中程には、特に白根から移った誓願寺があります。境内の観音堂に、
山の目小平次寄進の千手観音が安置されています。小平次は36万両を献金して、伊達家の
窮乏を救った東北第一の金山師でした。
 
△「きりたんぽ」の発祥地
 江戸時代始まりの慶長10年(1605)から続く秋田藩と南部藩の藩境争いがあって、延宝
5年(1677)に江戸幕府の御墨付き線の絵図面によって解決しました。その時に幕府から
検使が派遣され、津軽の藩境清水峠から、八幡平の桃枝地域まで現地調査しました。その
途中、山の中で検使の役人が空腹を訴えたので、杣人ソマビト(きこり)たちの冷や飯を串に
刺し、味噌を付け焼きしたものを差し上げたところ、「この食べ物は何というのだ」と問わ
れたので、南部藩の立会人がとっさに、槍の鞘に似ているところから、”たんぼ焼きです”
と答えたことから、その名が付いたといわれています。
 
 里では、その「たんぽ」をちぎったり切ったりして、兎や山鳥の出し汁で山菜などと鍋
物したのが、「きりたんぽ鍋」の原型といわれています。
 なお、串に刺して、味噌を付けて焼いたたんぽは、「味噌付けたんぽ」といいます。
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