11a 大里老人クラブ区域内の神様
 
名  称    所在地    故事来歴
 
「オシキ」
 大里部落の裏山の中腹に、官地(国有林)として部落で管理している草地が四反歩あ
り、これを部落の人達はオシキと呼んでいる。
 このオシキは昔、五ノ宮嶽に登ったと伝えられる五ノ宮皇子と関連するものであると
伝えられる。第二十六代継体天皇の第五皇子菟皇子(御母上はだんぶり長者の一人娘秀
子姫、後吉祥姫)が遠く都を追われ、大里から五ノ宮嶽に登ろうとした際、途中で馬が
倒れてしまい、一人で登ったと云う伝説があり、その馬の倒れた所を「オバフトコ」と
云い、今は湿地になり小さな窪みになっている。
 このオバフトコなる湿地にて、放牧した馬が草を食べたり、水を飲んだり、またこの
地に入っただけで悪魔が祟ったようにその馬が死んだと云われる。
 このオバフトコで死んだ馬のために、オバフトコから約三百米離れ、馬の入れない可
成りの急斜地を、大里部落では毎年八月七日の早朝に草刈りし、草はそのまま刈り捨て
おき、馬に手向けると云う行事が行われている。
 
 また、このオシキには部落民誰でも草刈りに入れるものではなく、昔から決められた
家柄の人達だけである。その他の人達は、オシキまでの道路端などの草刈りや清掃をし
たと云う。
 特殊なこととして、この草地オシキに草刈りで入る場合、「ホー」「ホー」と全員が
叫びながら一斉に入ると云う風習がある。これはホーホーと叫ぶことによって、馬の鳴
き声が聞こえないようにしているためであり、聞こえる人には、その年災難があるかも
知れないと云う伝えがある。
 
 また、向かいに位置するの久保田や尾去沢の農家の人達は、この草地の草刈りの跡を
見て、その年の豊作を占い、赤又は茶色に乾燥した時は豊作、黒く乾燥した時は不作と
占い眺めていたと云う。
 また、このオシキに行く途中御坂オサカの所に楢の木が二本生えており、村人がこれより
奥山に入る場合、山での仕事の安全を祈願したり無事を祈り、木枝で岐マッカを作り、この
楢の木に懸けて山に入ったと云い、この所を鍵懸け場と云う。無事帰った時はこの鍵を
取って帰宅したと云う。今から二十年位前の山火事で楢の木は焼けて倒れてしまった。
[オシキの現地付近]
[地図上の位置(オシキの現地付近の山「北林」)→]
 
明王院由来記         大里明王院は、建暦二年に開山されている当時鹿角地
               方に、即に天仁年間石鳥谷村熊師別当三光院あり、又
               正洽(正治?)の頃には尾去沢村阿遮羅山威王寺慈顕
               院あり、柴内大蔵院、毛馬内不動院などありました。
               慈顕院の支配下に大里明王院があり、松館法光院、田
               山一条院、三ケ田持福院、夏井妙泉院、田郡沢慈性院、
               夏井宝泉坊、谷内大法院等あり。
               又大里明王院は羽州羽黒山末派、飛鳥大明神、祭神垣
               山姫命、少彦命、速秋津彦命、神体は神鏡であり、祭
               日は六月十五日、戸隠大明神手力男命、神体神鏡を併
               設、羽州羽黒山御旅行不動明王を安置、居宅兼帯にて
               欄間五間桁間十間、社領四石八年なり、当時大里村大
               舘に舘主大里上総守住居の砌り、同人心願成就のため
               大里観音林に飛鳥大明神を勧請、天台宗羽黒派を名乗
               り、現在飛鳥大明神として残されていないが、不動明
               王の御神体は大里金沢家に祀られている。金沢家に祀
               られている御神体は二代目であり、初代は大火に過っ
               て焼失、安永四年乙未八月明王院慈高代、江戸で求め
               られたものである。
 
               建保五年には観音寺が併祀され、現在大里の産土神と
               して祀られている。弥陀薬師観音の三神を祀る。
               明王院の末社大里、玉内、小豆沢、湯瀬、石通等二十
               三社の堂宗(堂宇?)があり。
               中大里の川原稲荷等について述べる。正一位川原稲荷
               大明神、神体神鏡、祭日七月十九日、勧請年月日不明。
               天明二年南部藩士中村小次郎再建、明和四年七月、文
               明元年六月大里村作助上京伏見家(京都伏見稲荷)神
               社を申請、文政十年十二月同村三太上京神位申請、弘
               化二年七月同村善次郎上京白川家、伏見家神位申請、
               嘉永九年六月同村源右エ門上京、慶応元年同村半九郎
               上京白川家より神位申請、天明二年中村小次郎社領知
               行野竿高の中大枡に社領地寄附、東西十五間南北十四
               間となっている。
 
               正一位笹森稲荷大明神祭日四月十二日、縁起及び勧請
               年代不明、享保七年村内多兵エ再建、安永二年六月、
               寛成(寛政?)六年六月、文政元年六月、文政十年六
               月、天保十三年正月、嘉永三年六月六度、同人上京伏
               見家神位申請、慶応元年花輪谷地田町長兵エ、心願成
               就にて上京伏見家より神位申請。
               此の外、各末社に就いては紙巾なく後日に割愛する。

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